蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

ある丹波の老人の話(35)

「第6話弟の更正 第3回」


昼ごろになると朝のお粥腹がペコペコに減ってきたので、いろいろ考えた挙句寂しい村のある百姓家に入り、「昼飯を食べ損なって困っているからなにか食べさせてください」と頼むと、米粒の見えないような大麦飯にタクワン漬けを添えて出してくれました。

私はそれを食べ、最後の二銭をお礼において一文無しになって晩方に川合の大原に着きました。大原には貧しからぬ父の生家がありました。

そこで出してもらったお節句の菱餅を囲炉裏で焼く間ももどかしくまるで狐憑きのように貪り食らいそのまま炉辺で寝込んでしまいました。

弟はこの縮緬問屋へ三、四年くらいいたと思います。「アメリカへ行きたい」というて英語の独習などをやっていたがついに主家に暇をもらい神戸に行って奉公し、渡米の機会を狙っていたらしいのです。

それから朝鮮の仁川へ行ったのは神戸から密航を企てて発見され、仁川に降ろされたとかいうことでした。仁川では日本人の店につとめてなかなか重用されておったようです。

弟はそれから徴兵検査で内地に帰り、福知山の20連隊に入営しました。





初夏の光明寺を歩く

鎌倉ちょっと不思議な物語63回

材木座に近い光明寺は鎌倉では珍しい浄土宗の大寺で、寛元元年1243年に法然から数えて3代目の良忠上人が開いた。

光明寺には幼少時代の武者小路実篤が家族と共に夏を過ごしていたが、そんなことより毎年10月に行われる「お十夜」が有名である。

が、もっと有名なのは戦後間もなく昭和21年にこの寺の本堂と庫裏で「鎌倉アカデミア」が開設されたことだろう。(当初は鎌倉大学校といったが23年に光明寺に移転し今年創立60年の式典が開催された)

二代目の校長に就任したのが、マルクス主義哲学者として有名な三枝博音であるが、この人は不幸なことに国鉄の鶴見事故で亡くなった。

このとき確かかの有名な「競合脱線」という原因説が唱えられたが、その後いかに検証されたのだろうと、横須賀線で鶴見辺りを通過するたびに隣の東海道線をおそるおそる見守るわたしは、げにまったき過去の人なのであらう。

鎌倉アカデミア」の教授陣は服部之総、西郷信綱千田是也宇野重吉、吉野秀雄、高見順中村光夫林達夫などの錚々たる面々。学科は、文学科、産業科、演劇科、映画科の四学科編成だったが、一度でいいから聴講したかった。

しかし、創立時からの資金難に加え、自治体や企業からの援助も得られず、哀れわずか4年半しか存続できなかったという。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

この手弁当の市民大学からは、鈴木清順山口瞳前田武彦、いずみたく、左幸子などが巣立っている。

どうでもいいけれど「トリスを飲んでハワイへ行こう」はサントリー宣伝部時代に山口瞳が作った名コピーである。

ちなみにアカデミアの授業料は当時の早稲田、慶応などより高かったが、大半の学生が未払いだったそうだ。