蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

モーツアルトの1音符


♪音楽千夜一夜第22回 

先日音楽評論家の吉田秀和氏がNHKの教育テレビに出演してインタビューに答えていた。

そのなかで小林秀雄のモオツアルト論の衝撃について語りつつ、しかし小林は音楽の専門家ではないこと。また小林は直感と文体に優れてはいるが、彼の論理には前進がなく、周辺をうろうろ低回しながらその発展がなくてけっきょく元の木阿弥に戻ってしまう、という種類のことを自宅の緑陰のロッキングチエアに身をゆだねつつ語っていたのだが、それを聞いて私は「ああ、それはほんとうにそうだな」と思った。

もっとも頭の悪い私には小林の「本居宣長」などいくら読んでもなんのことやら、何をいいたいのだか、全然分からなかったから、余計にそう思ったのかもしれないが。

モーツアルトは生存中から音符が多すぎると非難されたが、吉田氏は彼のはじめての著書の「主題と変奏」のなかで、その数多い音符のなかの些細なたった1音符が他の凡庸な作曲家と鋭い一線を画していることを、実際に譜面を示しながら説いている。

しかし悲しいかな音符がまったく読めない私には、その真意が全然理解できなかった。
 
ところが幸いにもこの番組では作曲家の池辺晋一郎氏が登場して、モーツアルトのK505のピアノソナタのその個所を演奏しながら、その♯の1音のあるなしの意味について語ってくれたので、私は改めて批評家吉田秀和の批評の具体性に感動し、「ああそうなんだ」と心から得心したのだった。

もうひとつは吉田氏が日本にその真価をはじめて紹介したグレングールドについて、「彼はバッハを新しい叙情性でもって演奏した」と一言で要約したことだ。
私はこのときまたしても、「ああそうなんだ。グールドって新しい叙情的なバッハを弾いたんだ」と思って、心から得心した。

私にとって吉田秀和という人は、誰も何も言わなかったことに対して、「ああそうなんだ」と心から思わせてくれる世にも貴重な存在なのである。