蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

小さな勇気と大きな偶然


鎌倉ちょっと不思議な物語68回

パタゴニア社の向かいに聳えるのが思い出深きH芸術学院である。ここは早い話が美容師さんを養成する専門学校であるが、美大受験生のための予備校でもあり、以前はスタイリスト科という講座もあった。

私は二〇〇〇年の1月に職を失って1匹の猫背のムク犬のごとく関東平野をさすらっていたのだが、ある日駅前から見えるそれなりに瀟洒なビルを発見し、「こはいかなる建物なるぞ?」と近付いてみると、それがH芸術学院であった。

八幡様の大通りや、駅のホームからも見えるそのビルは、駅前の醜悪な居酒屋「笑笑」と違って、少しくデザインのセンスが感じられたのである。

名前も「げーじゅつ」だし、こんな鄙びた学校ならもしや私のような風来坊にも講師の口があるかもしれないと思って狭い1階のフロアの傍の階段を昇って2階に至ると、そこは歯医者さんであった。

余は今日は歯医者に用はないぞ、とパスして、グングン3階に昇るとそこに受付があり、二人のおばさんが「あーた、なんですか?」と誰何したので、余があわてて用件を告げると、得たりやおうとばかりに、スピルバーグの映画「スターウオーズ」に出てくるヨーダそっくりの年齢不詳の女性が別室から出てきた。それがH女史であった。
 
私が「今日初めて知ったこのおされなげーずつぐわっこうで21世紀後半のスタイリストさんのためのふぁっちょん講座を開催したい。わたしは他にはなにもできませんが、ことふぁっちょんに関しては斯界最高の講義をちょう格安で提供いたしますぜ」

と単刀直入に申し入れると、お茶ノ水大にて日本服飾史を研鑽されたヨーダ、じゃなかったH女史は、「あーらまあ、ちょうどよかったわ。あーた、早速来週からメンズ講座をお願いできますか」とおっしゃるではないか! 

これはびっくり、門は叩いてみるモンだ。パンツははいてみるもんだ。しかしあまりに話がうますぎる。なにか裏があるのではないかと思ったが、実はかの有名な紳士服飾評論家のT氏がどういうわけだか講師を辞退された直後だったらしい。 

当時フリーターだった私が、“奇跡的一発逆転就活大成功”に興奮していると「ただし授業の前にあなたの大学の卒業証書を持ってきてください」とヨーダがいう。

私は「自慢じゃないがそんな陋劣なものは持ってはいない。されど卒業論文ならどこかにあるはずなのでお目にかけてもよろし」と答えると、「ではそれでも結構」とヨーダが鷹揚に答え、私はすぐに2000円で買った中古自転車で自宅にとって返し、書斎の奥から出てきた懐かしいP・ヴァレリー論!をヨーダに提出し、ヨーダの感動の涙、涙を誘い、かくて私は晴れてH芸術学院のひじょーきん講師に就任したのであった!!
ああ、なんとげーじゅつ的香気かんばしい逸話ではないだろうか?

かくして私は、小さな勇気と大きな偶然と親切なヨーダ女史のお陰で、鎌倉一おされな学校のおされなヒジョーキン講師を1年間にわたって勤め、かの悪名高き小泉政権が推進した下層超下流階級への脱落を、かろうじて崖っぷちすれすれで「自己責任!?」でくいとめることに成功したのだが、その翌年、不幸なことにわがスタイリスト科への入学者が皆無であったために、余はふたたびさすらいの自由業者となったのであった。