蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

山吹の里


遥かな昔、遠い所で第18回

いづれの御時にか、私は早稲田の裏の裏にある都電に乗って飛鳥山の麓にある滝野川までの存外に長い時間を行き来していた。

その途中には大塚や巣鴨や雑司が谷の墓地などもあったが、帝都の北の滝野川一帯はごちゃごちゃした庶民の町であった。

私が下宿していた家には外語大や東大やその他の学生が地道な学生生活を営んでおり、自堕落に生きているのは私くらいのものだった。この下宿には大家が大事にしているみなこさんという一人娘がいて、私らは毎晩みなこさんの容貌や人となりや彼女の将来の人生行路につい深夜まで大声で語らいあい、一家に迷惑をかけてばかりいた。

いちどそんな真面目と不真面目の学生こぞって近くのバー「黒猫」に行ったことがあるが、それが私の酒席初体験であった。こんな気色の悪い空間にうごめく醜悪な女どもと吐き気のするようなアルコールに、私は大人の世界の饐えた臭いを嗅いだようだが、そこへは二度と足を向けなかった。

週に1度くらいは学校に行ってもみたが格別の事件もなく、私はまたしても持病の原因不明の微熱に悩まされ、退屈きわまりない日常をもてあましていた。その数ヵ月後に熱にうかされたような突然のクー・デタが襲ってくるとは夢にも思わずに、倍賞千恵子の父親が運転するチンチン電車に揺られていたのである。

昨日紹介した亮朝院の北の、神田川にかかる面影橋のあたりは、太田道灌の「山吹の里」の伝説が残されている。
♪みのひとつだになきぞ悲しき、という例の歌だが、太田道灌も世間でちやほやされる割には悲惨な最期をとげたものだ、と思いつつ私は早稲田界隈にながの別れを告げた。