蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

小倉慈司・山口耀臣著「天皇と宗教」を読んで


照る日曇る日第461回

「天皇の宗教」と聞かれれば、そりゃあやっぱり神道でしょう。なんたって国家神道というくらいだから、ものすごく格調高いんじゃないか、と思うのですが、実態はそうでもなさそうです。

私はときどき正月二日に鎌倉宮の正式参拝に訪れて、神主さんかその代理人の年頭のメッセージを聞くことがあるのですが、その内容たるやおそまつ君そのもの。犬が西向きゃ尾っぽは東、なんて地元の古老の人生訓に比べてもいちじるしく劣る内容を偉そうに演説しています。かつて口丹波は丹陽教会の名牧師、塩見森之助先生の素晴らしい説教に接した私にすれば、今は亡き我が家の愛犬ムクにでも喰われろという超低レベル。おそらく現在の神道の教義のレベルなんて、かの靖国神社でも伊勢神宮でもその程度に違いありまっせん。 

もちろん戦時中の高松宮のように「皇族よ、信仰に目覚め神ながらの道を拝せ。いまぞその時!」なーんていう性急に神道を国家宗教にしたがるファナチックな方々も大勢いらっしゃったようですが、古代から近世、現代に至るまで天皇家では紆余曲折の限りを尽くして、総合的には「神道6割、仏教4割」くらいの比重で恭しく信仰され、宮廷内の儀式として機能しているようですね。

本書を読むと、天皇の葬儀にしても江戸時代の大半は火葬してから京都の泉湧寺に葬っていたのに、明治維新で神道が巻き返して現在では懐かしの神式で土葬しています。されど当代の皇后陛下はカトリックの家に育った人だが、それでおよろしいのか? 死んで花実が咲くのでしょうか? それとも皇族には宗教の自由なんてないのかしらん。

この際、天皇や天皇家や天皇制のことなんかどうでもよろしいが、いったい神道って何なんですかね。広辞苑では「もと自然の理法、神のはたらき。我が国に発生した民俗信仰で祖先神や自然神への尊崇を中心とする古来の民間宗教が外来思想である仏教・儒教などの影響を受けつつ理論家されたもの」とあります。「信仰」とはあるが、「宗教」とは書いてない。

そこで思い出すのがかつて明治の初めに米欧を訪ねた岩倉使節団の当惑です。本書によれば彼らは西洋人に事あるごとに「何宗か?」と聞かれて往生したようですが、そのアナーキーな事情は現在もあまり変わっていないのではないでしょうか。

私たちの大半は冠婚葬祭のときだけは仏教や神道やキリスト教信者の振りをしていますが、一部の例外を除いて本当にそれらの神を信仰しているわけではない。かといって無神論者でもなさそうだ。宗教と無宗教の間をふらふらと彷徨いながら、じつは世界史上まれな自然の理法、すなわち「新しきかむながらの道」を模索しているのではないでしょうか。


汝等あらゆる宗教原理主義を拝しあたらしき自由の道を歩め 蝶人