蝶人戯画録

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エーファ・ヴァイスヴァイラー著「オットー・クレンペラー」を読んで


照る日曇る日第471回&♪音楽千夜一夜 第233回

その指揮者がやる音楽と政治的志操は無関係だと言い切ったあとでも、潔癖無比だった剛直なトスカニーニのように、出来ればカラヤンがナチ党員ではなく、フルトヴェングラーがヒトラーの誕生日に演奏なんかせずにいてほしかった、と思わずにはいられない。

では私がその音楽と人柄を偏愛するオットー・クレンペラーがどうだったかというと、なんと彼は1922年の12月にトスカニーニが蹴っぽったムッソリーニの臨席するスカラ座演奏会で「ファススト党讃歌」を嬉々として振ったというから、嫌になる。

どうもこの極度の躁うつ病を周期的に繰り返したこの指揮者は、つねに音楽と自分の病気と狂気と突発的な恋愛に激烈に囚われるあまり、時の政治的空気を読む能力が異常に弱かったように思われる。

けれどもクロール・オペラで彼の初期の音楽的黄金時代を築くことに成功していたクレンペラーは、1934年にはユダヤ人狩りが猖獗をきわめたオーストリアから家族ともどもちゃっかりロサンジェルスに亡命して当地の交響楽団を手兵にし、シェーンベルクやパウル・ベッカーなどの亡命者と激しい内紛を繰り返しながら、「第2の人生」のキャリアを築き直したわけだから、たいしたものだ。

しかし本書によればそこから彼の最悪の危機がはじまる。彼の生涯でたびたび繰り返された重度の障碍にまたしても陥ったクレンペラーは、脳腫瘍の手術のあとで髄膜炎に襲われてロスフィルを解雇され、糟糠の妻を裏切って若い美女に入れ上げて心中をはかり、その後も火傷や骨折や災難や事故を引き起こしながら世界中を放浪した挙句、ようやく1959年になって名プロデューサー、ウオルター・レッグに見出されて英国のフィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者になる。

それからの活躍は私たちが知る通りだが、本書はそこにいたるまでのドイツ国内における彼の壮烈な音楽修業時代の足取りを初めて克明にレポートして、クレンペラー・マニアの蒙をあざやかに啓いてくれている。巻末に付された同時代人の証言や膨大なディスコグラフィーもとても参考になる。

長身で痩身で躁鬱でユダヤ人でカトリックでまたユダヤ教に戻ったクレンペラーマーラーを聴け 蝶人