蝶人戯画録

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よしもとばなな著「スウィート・ヒアアフター」を読んで

照る日曇る日第476回

震災で亡くなった大勢の無辜の民を悼むために、この作家がみずからも亡き人の在ます世界に沈入して懐かしい人たちとの交わりを深めようとするのは善い事であるし、それは小説家だけに許された特権かもしれない。

京都に住むアーチストとヒロインが乗った車は上賀茂に帰宅する途中で交通事故に遭いあっけなくこの世をみまかる。フリーダ・カーロのように腹に鉄棒を喰らった彼女だけは一命を取り留め、最大の不幸と絶望の中から再生を試みようとするのだが、もしかすると彼女も彼と一緒に死んだのかもしれないし、生きていながら2つの世界を往還する霊魂の背負子のような存在なのかもしれない。

著者がそういう霊界の存在に寛容な人物であることは事実なのだろうが、ここで書かれているような生者死者を超越した父母未生以前の世界を、私は断固否定しようとはいまでは思わない。しかもそれは往々にして私に周辺でも実際に起こっているのだから、なおさらのことだ。

人世は死ねば終りではなく、あの世でかれらも私たちの身内も生きており、その気になればいつでも会って話してなぐさめあう事が出来るという考え方は、私たちにいわば2層倍のおおいなる精神の自由をもたらす。だからガリガリの無神論者たちも霊的なるものの存在を完全には否定したがらないのであろう。

けれども30年以上も前に同じ京都の比叡山ドライブウエイから谷底に転落した知人がたまたま車体頑強なボルボに乗っていたために九死に一生を得たことも知っておく必要があるのだろう。

午前二時また玄関の鐘が鳴る 蝶人