蝶人戯画録

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横浜港の見える丘公園内の「大仏次郎展」をみて

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茫洋物見遊山記第133回

 

大仏次郎は幸福な人だ。同じ鎌倉の文士であった小林秀雄の居宅の跡はかけらも遺されていないのに、彼の場合は本宅こそ取り壊されたものの、その向かいにあった別邸は現存して公開されており、あまつさえ横浜の県立文学館の一角に立つ瀟洒な洋館「大仏次郎記念館」では、彼の膨大な蔵書のみならず鎌倉の本宅にあった書斎が忠実に模されて残っている。

 

大仏次郎は不思議な作家で、一方では「鞍馬天狗」や「照る日くもる日」などの大衆小説を多作するかたわら、パリ・コンミューンやドレフュス事件、そして代表作として名高い「天皇の世紀」などのノンフィクションを手掛けた。ミーハーもインテリゲンチャンたちも満足させる硬軟両様の文章を二つのジャンルで使い分けるとは並みの作家にできることではないが、おそらく彼の中ではその両方の精神活動が駆動の必須のエレメントであったのだろう。

 

「照る日くもる日」の隠れファンたるわたくしは、そのタイトルを自分の読書感想文のブログの題名に流用させてもらったが、仏蘭西物の評伝も夢中になって愛読したものだ。朝日新聞に足掛け五年間に亘って連載された「天皇の世紀」はまことに気宇壮大な維新史で、作者が築地の癌研に入院しながらベッドの上で死に物狂いで遺書のようにして書き継ぐ一文一文を眼を皿のようにして読んでいたが、とうとう明治天皇の戴冠を待たずして永久に中絶してしまったのは哀切の極みであった。

 

 この記念館には作家の遺書が展示されており、葉書に記された「ほんとうにお世話になりました。みなさまのご幸福をお祈りもうしあげます」という短い感謝の文章を読むと、ライフワークを完結出来なかった作家の無念に一入こころ打たれるのである。

 

 

「お世話になりましたみなさまの幸福を祈ります」と書き遺し大仏次郎息絶えたり 蝶人