蝶人戯画録

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夏目漱石の「こころ」を読んで

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照る日曇る日第730回

 

 

 朝日新聞に連載されていたので林真理子の「マイ・ストーリー」と合わせて読んでいたのですが、漱石の方が去る9月25日に終わりました。

 

 漱石は好きな作家ですが、個人的には「猫」「坊っちゃん」「夢十夜」など最初期の一部の作品が文句なしに面白く、「三四郎」までは結構ですが、だんだん深刻真面目の観念世界が薄墨色に繰り広がられていき、中期の軽快な傑作「彼岸過迄」を除くと、もういちど読んでみたいと思う作品はありません。

 

「こころ」は最初の由比ヶ浜の海水浴で先生がまっすぐに沖合まで泳いでいって、またまっすぐに浜まで戻って引き上げるところは超カッコイイ。

 

 されどその「先生」を慕う「私」との関係や、先生がなぜか長い遺書をのこして死んでしまう話もさっぱりわけがわからず、いくら親友の「K」に不義理したからといって、いくら明治天皇崩御したからといって、乃木将軍が殉死したからというて、いくら小説の中の話だからというて、「先生」までもが自殺するこたあないじゃないかと、いつも思うのであります。

 しかし明敏な丸谷才一泰斗がつとに指摘しているように、いくら荒唐無稽と謗られようが、この小説は、漱石ならぬ夏目金之介によって書かれなければならない自己告白と自己処罰、贖罪の書だった。

 

 なぜなら漱石は、学生時代に北海道に「送籍」することによって、日清戦争日露戦争への徴兵の可能性を免れているからで、彼が尊敬する明治天皇の国家と国民に対する精神的な負い目は、ただちに帝大から松山、熊本への自虐的な「都落ち」につながり、幸か不幸か英国への国費留学から帰国した後も、彼の死病となった胃の腑に重苦しくのし掛かっていたに違いありません。

 

「こころ」は、三角関係の恋愛小説という仮の姿形をとってはいるものの、しかしてその実態は、人一倍誠実で真面目な明治のインテリ漱石が、全国民の前に臓腑を晒して「わが鮮血を見よ!」とばかりに蛮勇を奮って書きあげた自己弾劾、自己処罰の告白書なので、この小説の変態性と奇妙奇天烈は全てここからきています。

 

「先生の遺書」というのは、じつは「夏目金之介の遺書」なのです。親友「K」とは明治「国家」の象徴であり、その国家を裏切った「先生」は自栽します。陛下から賜った軍旗を賊軍に奪われた汚名を雪ぐために自害した乃木将軍のように。

 

 漱石は夏目金之介を殺す代わりに、この小説のなかで「先生」を自殺させ、そのことによって陛下の赤子として、作家としての責務を万分の一でも果たそうとしたのです。

 

「記憶して下さい。私はこんな風にして生きて来たのです」という異様な声音は、「先生」の言葉ではありません。それは夏目金之介=漱石の「こころ」の奥底から発せられた「必死」の言葉だったのです。

 

 

  なにゆえに夏目金之助は死ななかった漱石が「こころ」を書いてくれたから 蝶人