蝶人戯画録

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トマス・ピンチョン著・佐藤良明訳「重力の虹」下巻を読んで

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照る日曇る日第737回

 

 佐藤良明氏の手になる1441頁を読みに読んで、ついに読み終わっても、この小説のテーマはいったい何であり、題名の「重力の虹」とはなんのことであったのか?

 

 死ぬ間際の走馬灯のように脳内細胞をはげしく点滅させても、どんなイマージュも浮かんでこないのは遺憾、いやイカンなあ。

 

 地獄の奥底から噴出し続ける言葉言葉言葉の疾風怒濤のブリザードが、やっとこさっとこ吹きやんだ。これでやっと終わったんだ、という安堵だけを残して、老生は裏表紙を閉じるのである。

 

 なあんて話にはならなくて、この小説の400名を超える登場人物のなかで妙に気になったのは大日本帝国海軍少尉のモリツリで、彼はこの第2次大戦が終わったら風光明媚な故郷広島に帰って家族と静かな生活を送ることを夢見ていたのである。

 

 しかし「小ぶりの黄色人間が十万人、瞬時に蒸気に変じ、内海に面した都市の融けた瓦礫の上の、ぶ厚い焼き豚の皮として蒸着する時が近づいている」などというくだりを読まされると、この作家のエグイ人種差別根性にひそかに憎悪を覚えるとともに、現世と世界への抜きがたい露悪趣味を感じないではいられない。

 

 されどそのような欠陥を内蔵しつつも、弱冠35歳でこんな途方もない大小説をものにじたとは大したたまげたものであるなあ。

 

なお下巻440頁に出てくる「コンマ蝶」は学名C-album、邦訳では「シータテハ」とするべきであろう。

 

 

   この世をばやや斜交いに渉りおれば寂しき孤高の人となりゆく 蝶人