蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

熊野の聖なる水~「これでも詩かよ」第115番

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照る日曇る日第748回 ~中上健次集6「地の果て 至上の時」を読んで

 

 

久しぶりに北嶋君と芝居を観た後で、彼の自宅で飯でも食おうということになって、2人でスーパーで買い物をしてから歩道橋を歩いていたら、向こうから本町4丁目の足立茶碗店の足立君がやって来て、「ほらよ、これが「熊野の天然水」だ。遠慮せずに持ってけよ」

といって北嶋君にビニール袋を渡した。

 

北嶋君は、「僕は君が誰だか知らないし、知らない人から物をもらってはいけないとカントも語っているから、要らない」と断ったのだが、足立君があまりにもしつこく「持っていけ、持っていけ」とヤクザのように強要するので、さすがの北嶋君も根負けしてその重いビニール袋を受け取った。

 

両手に花ならぬ食料品をいっぱいぶらさげ、大汗かいて北嶋君の家にたどり着き、一歩玄関の中に入ると、驚いた。玄関も、リビングも、キッチンも、寝室も、書斎も、トイレや浴室の中まで「熊野の天然水」で一杯なのだ。

 

1LDKに立錐の余地なく立ち並ぶ500mlのペットボトルの大群は、モダンアートのインスタレーションのようでもあり、巨人の胃袋の内壁にびっしりとへばりついたポリープの森のようでもあった。

おまけに北嶋君のビニール袋の中には「熊野の天然水」しか入っていない。

 

「北嶋君、これはいったいどうしたわけだ」と尋ねると、カントの読みすぎで青ざめた顔付きの哲学青年は、上がり框にどっかりと腰をおろして、事の次第を語ってくれた。

 

「実はさっきの足立君は僕と同じこのマンションに住んでいるんだが、中上健次の水呑み婆が出てくる小説を読んでから水呑み教の虜になってしまったんだ」

 

「その小説では熊野の聖水を飲むと、体毒をきれいにしてくれる、という妄想に取りつかれた連中が出てくるんだが、これに一発でいかれてしまった足立君は、毎晩僕の部屋にやって来て「熊野の天然水」の押し売りをするようになってしまった」

 

「ああ、仕事だって大変なのに、家に帰れば足立君が聖なる水をガブガブ飲めば健康になって幸せが訪れるという。飲んでも飲んでも下痢をするばかり。これからいったいどうなるんだろう。僕は人世に疲れ果てたよ」

 

と嘆くのだが、私はそんな北嶋君をなんと慰めてよいのか分からなかった。

 

 腰かがめ「頂戴します」と言いながら両手で名刺を受取りし健さん 蝶人