蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

川井怜子著「メチレンブルーの羊」を読んで

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照る日曇る日第752回

 

 

メチレンブルーの羊のわれは混みあへる路線バスに乗りつつじ見に行く

 

 という歌からとられた題名に、まず意表をつかれました。

 

 メチレンブルーとは美しい青色の色素で、ウールを染色したりするそうだから、青いセーターを着た作者が満員バスに揺られて、さながら一匹の迷える羊のように、まだ行ったことのない行楽地に向かおうとしているのかもしれません。

 

 ともかくこの歌人は、一撃で物事の本質を捉えます。

 

たっぷりとインクつまれど字の書けぬボールペンのやうな人に会ひました

九月六日月曜日午後三時よりスーパーいなげ屋の茄子詰め放題

銀色のアンクレットゆれる足首をふと摑みたい地下鉄の段

 

 鋭い観察眼と的確な表現、そしてそこから膨れ上がってくる斬新なイメージに、私はいたく驚かされました。

 

たうがらしむむつとふりてほれぼれと団十郎がうどんを食ふも

あの人は何処へ行くのか晴天を雨傘一本抱へ降りゆく

救急車に運ばるるいのち電車より見下しながら併走しをり

 

 事象をリアルに射抜く作者の眼は、同時に夢幻的でもあります。

 写実と幻想、日常と非日常のさりげない同居! そこでは短歌が一行の童話でもあるようです。

 

少年の象使ひは夢をみるならむ胸板厚き青年象使ひを

月光は大人の時間コンビニの袋ゆらしてぶらんこに乗る

声明るき車のセールス小川さんがあきらめかへる春のゆふぐれ

食ひ食はれ戦ひののち残りたる一匹のこぶたのお話ししましょ

 

 さりげなく歌っているけれど、この歌人の技巧には舌を巻くほかありませぬ。

 

クローバーの花野荒らしてふりかへるなにごともなきクローバー花野

尾を捨てし一大事件なんのその蜥蜴は温き春の石の上

魚清はわが家の変遷見てきたり四匹、三匹、二匹の秋刀魚

 

 また、いきなり読者を驚かせることも……。

 

文旦の黄の明るさを抱へをり軍場(いくさば)なれば御首ひとつ

くれなゐの葉脈粗きもみぢかな われに関東の血は流れつ

紅白の夾竹桃を門先にはべらすO氏邸のかがやく祥気

 

されど、伴侶に向けられる視線がなぜか暗いのが、気になります。

 

ハンイバル戦記夜毎に読む夫のこころの行方われは問はざり

地下鉄の窓のさみしさ夫にいへば「ああ」と答へて本を読みゐる

蕨餅と葛餅のちがひ三十五年分からぬ人とけふもくらせり

新しきテレビの前に磔刑となりし家人と袂を分かつ

美術館にはぐれし夫は木の陰の吹かるる椅子に腰かけゐたる

千円の不具合の傘かへし行くわたしを夫は怖いと言えり

 

 所詮人世は、暗く、寂しいものなのか?

 

あはあはと齢をかさねかたくななこころばかりがこつんとありぬ

六十歳から七十歳までが楽しき日日深く頷くうなづきてさみし

日蔭茶屋の黒き柱に背をもたれ魚食ふわれらただに夫と妻

嘘をつくたのしみなどもなくなりて一つソファーの両端にゐる

絶え間なく花咲き実のなるこの国に人間のみが年老いてゆく

 

 しかし作者がこの世界に注ぐ眼は、思いのほか温かく、そこからは新しい光がさしてくるように感じられるのです。

 

両の手をそつとひらけばカブトムシの幼虫ごろりきみのたからもの

何ならむこの明るさはレモンイエローのセーターにわれは隠れむとして

一匙のスープにぽつと口をあく赤子にわれらみな口をあく

 

 歌人のご健勝とご活躍を心から祈念いたします。

 

 

  耕君が首長くして待っている鎌養の教師に出した年賀状の返事 蝶人