蝶人戯画録

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池辺三山述滝田樗陰編「明治維新三大政治家」を読んで

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照る日曇る日第766回

 

 

 夏目漱石を東京の朝日新聞に招聘した編集主幹の池辺三山が49歳で死ぬ間際に中央公論の名編集者滝田樗陰に語り下ろした幕末維新の立役者論です。

 

 先輩である同時代人の大隈、山県、井上、ちょっと下がって原敬犬養毅後藤新平尾崎行雄などに対する辛口の短い批評も面白いが、もっと読み応えがあるのは、やはり巻頭の大久保利通岩倉具視伊藤博文の3名に対する談義でしょう。

 

 いちおうこれらは樗陰によって「論」というタイトルがつけられていますが、けっしてああ堂々の歴史評論とか堅苦しい人物論というようなフォーマルなものではなく、樗陰の巧みな誘導に乗ってざっくばらんに語りはじめ、あちこち寄り道しながらも一気に興に乗り、あっという間に語り去られたかなり即興的な月旦評なので、そのつもりで取り扱う必要がありますが圧倒的に面白い。

 

 その後大流行した右翼や左翼史観を含めて、いっさいの社会的意識形態と謬着した歴史観にてんでとらわれていないから面白いのです。

 

 その面白さについて、三山と肝胆相照らした漱石は、本書に寄せた序文の中で「過去が逆さに流れて現在に彷徨して来る。長州。薩州、勤王、佐幕、あらゆる複雑な光景が記憶の舞台を賑やかにする代わりに、美事なパノラマとなって、現に眼の前に活きたまま展開する」と評していますが、そのとおりの内容だと思います。

 

 では「三大政治家」の中に伊藤博文があって、なぜ「南州西郷隆盛編」がないのか?

 

 三山は、大西郷を慕って西南の役に従軍し破れて刑死した父、池辺吉太郎の息子であるだけに大いに期待されたのですが、彼が満を持して取りかかろうとした矢先に惜しいことに急死してしまいました。

 

 けれども三山のこのような高等講談的カタリ、物事の本質にやわらかに参入してゆく歴史談義、慇懃無礼で単刀直入な人物批評の作法は、たとえば小林秀雄の講演形式や司馬遼太郎の小説やエッセイのアプローチの中に十分に生かされていて、現在もなお独特の存在理由と輝きを失っていないと、私は考えています。

 

 

 なにゆえに「維新3大政治家」に西郷どんが抜け落ちている池辺三山が急死したから 蝶人