蝶人戯画録

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夏目漱石の「三四郎」を読んで

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照る日曇る日第770回

 

購読している朝日新聞がさきの「こころ」に続いて日々連載していたのでなんとなく再読することになってしまったが、止せばよかったと後悔することになってしまった。なんというか、読物としてほとんど詰らなかったのである。

 

 むかしはじめて読んだときはこちらが若かったせいか、主人公の三四郎と田舎者の自分をなぞらえて帝都の美と知の象徴のごときヒロインの美禰子にもおおいに憧れたのであるが、今回は「この男なんでこんな女に惚れたのか、馬鹿な恋をしたもんだ」と冷たく突き放してしまった。歳はとりたくないものです。

 

 結局改めて記憶に焼きつけられたのは、上京する列車で喰うた弁当箱を窓から投げ捨てる場面と、乗り合わせた女と名古屋で同宿した女から「あなたは度胸のない方ですね」と切り捨てられるシーン、乗り合わせた広田先生が、「日本は滅びるね」と断じ、由比ヶ浜の海岸を抜き手で泳いで帰ってくるところ、

 

 さうして三四郎池の青空とヒロインが丘の上に登場する個所と最後に三四郎と美禰子が別れる全編のキモのところ。(以下引用)

 

ヘリオトロープ」と女が静かにいった。三四郎は思わず顔を後へ引いた。ヘリオトロープの罎。四丁目の夕暮。迷羊。迷羊。空には高い日が明かに懸る。(引用終わり)

 

 ちなみにこの迷羊には「ストレイシープ」とルビがふってある。

 

 とどめは教会から出てきた美禰子が旧約聖書第51篇第2節の名台詞「われは我が愆を知る。わが罪はつねにわが前にあり」を「聞き取れない位な声でいう」ところ。

 

 嗚呼、これで哀れ三四郎は万事休すとなるのである。

 

 漱石の小説の魅力は、「猫」や「坊っちゃん」のように物語が軽快で文章が生き生きしていること、のはずだったが、ここでその痕跡が残るのは、はつかに生前の子規を思わせる与次郎の快活と剽軽さのみ。全体的にプロット相互のつながりが小澤征爾の指揮のように気息奄奄として、物語の展開になめらかさと合理性を欠いている。

 

 それゆえこの青春恋愛ビルダングス小説の生命線は、この「ストレイシープ」だの「ハイドロオタフヒア」や聖句のひけらかしなどの英文学的素養と蘊蓄にあるといえよう。

 

 

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