蝶人戯画録

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五味文彦編・現代語訳「吾妻鏡15飢饉と新制」を読んで

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照る日曇る日第777回

 

 

 本巻では正嘉2年(1258)から弘長元年(1261)までを扱っていますが、正元元年(1259)は記事が欠落しています。北条氏にとって具合の悪い事件が起こったのでしょうか。

 

 当時は本書のサブタイトル通りに飢餓が蔓延して、街中には子供や老人や病人が捨てられていたようですが、北条時頼や長時、政村、時宗などが救済の手を差し伸べた形跡はない。

 

 京から下った将軍宗尊の儀式の行列の順番とか弓の当たり外れを夢中になって論じているけれど、社会的弱者や貧民を冷酷に切り捨てる冷酷さは、こんにちの安倍政権福祉切り捨て富国強兵武断政治にいささか似ているといえましょう。

 

 また宗尊は、そんな下らないことでしか北条に異を唱えられない傀儡将軍であったことがよく分かります。

 

 文応元年(1260)の10月8日には、北条政村の娘が比企能員の娘讃岐局の亡霊の蛇の祟りで患い、父親の政村が一日経を書写し、若宮別当僧正が加持祈祷している最中に、蛇のように身をよじり、舌を出して唇を舐めるなどして大騒ぎになった。

 

 結局同月27日には本復したのですが、悪辣非道な北条は、比企一族のみならず和田、畠山、三浦などのライバルを陰険な策動で皆殺しにしているのですから、こんな小者だけを呪詛したはずがない。

 

 モンゴルを撃退したものの夭折した時宗なんかも、きっと非業の死を遂げた御家人の悪霊に取り憑かれたのでしょう。能天気な観光客は知らないだろうが、死都鎌倉では、平成の御代になっても武者の亡霊が丑三つ時に暴れ回るのです。桑原、桑原。

 

 

 

     丑三つの若宮大路を騎馬でゆく血塗れの武者畠山重忠 蝶人