小谷野敦著「江藤淳と大江健三郎」を読んで
照る日曇る日第778回
これまで里見、谷崎、久米、川端の浩瀚な伝記をあらわしてきた著者による江藤&大江のなんと“ダブル伝記”であるが、「作品論には踏み込まない」といいつつも、随所で作品と対象者への価値判断を行い、それが期せずして副題が示すような「戦後日本の政治と文学」についての個性的な概説になっているのは、著者の一回限りの離れ業だろう。
総じて江藤への点が辛いのは予想外だったが、大江に対しては1965年の「谷崎朝」の終焉直後から「大江朝」が始まっており、大江は「もしかすると近代日本最大の作家である可能性もある」と断じるのだから、これまた想定外の大判振る舞いだ。
しかし大谷崎ほどではなくても、大江と三島が近代日本文学の南北朝の代表選手であり、その平成後継者が「村上朝」であることは、そう間違った俯瞰図ではないだろう。本当は「両村上朝」時代の到来を予言していた私にとっては、「龍」選手の超低空飛行が気になる今日この頃だが。
江藤は評論家であり、大江は作家だから、両者の文学的達成を同じ天秤にかけることは無理無体だが、少なくとも私の中では、前者の漱石論や「治者の文学論」、「フォニー論」、西郷論、“華麗なる一族”物よりも、後者の疑似私小説の創造世界の魅力に軍配があがる。駄作も数多い作家ではあるが、大江健三郎こそ“我らの時代”を代表する作家だろう。
最近芥川賞に落選した著者は、「なぜあんな下らない作品が選ばれておのれの秀作が没になるのか」と大いに悲歌慷慨したそうだが、成功している他人への妬みや嫉み、“憧れの大学教授”へのコンプレックスを包み隠さず露出していることも、私は正直でかえって好ましいと思うのである。
余談ながら、著者と大江と私の唯一の共通点は、ともに反天皇制の反対論者であることで、「人の上に人をつくる」この制度の一日も早い廃棄なしには、本邦に棲息する人間の自由も平等も自立もありえないだろう。
なにゆえに人の上に人が立つ人間は生まれながらに平等なのに 蝶人