蝶人戯画録

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東田直樹著「自閉症の僕が跳びはねる理由」を読んで

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照る日曇る日第789回 

 

 前作の「あるがままに自閉症です」よりもっと前の時期である中学生時代に書かれた原稿ですが、やはり自閉症という障ぐあいについてその渦中にある著者が自分で記述しています。

 

 たまたま長男が自閉症であったために、私も仕方なくこの世界に頭と体をつっ込んできました。

 

 されどこれまで「自閉症=脳の器質障ぐあい」説が統一見解であった日本自閉症協会のヘッドが、どういう風の吹きまわしか突然「自閉症遺伝原因」説を唱えたり、昔からお世話になって来た佐々木正美氏が、これまた突然「実は私も自閉症です」などど謎の告白をされるなどの異常事態を目にすると、すぐる半世紀の勉強や体験は一体どういう意味があったのかと自問自答を余儀なくさせられる今日この頃でして、それは戦後70年が経過した本邦の歴史認識となんとなく似た不毛さを感じないではいられません。

 

 そういう濁った眼で読みなおしてみれば、「どうして水の中が好きなのですか?」という問いに「僕らは人がまだ存在しなかった大昔にかえりたいのです」と答えたり、「散歩は好きなのはなぜ」に対して「緑が好きだから」というのは、そのまま鵜呑みにできる内容なのでしょうか。

 

 ここでは自分の行動を説明するというより、行動の童話的潤色が優先されているのではないかという気がするのです。

 

 また「跳びはねるのはなぜですか?」という問いに対して「空に吸い込まれてしまいたい気持ちが僕の心を揺さぶるのです」という答えは、ひとまずなるほどと思えても、さらに「そのまま鳥になってどこか遠くへ飛んでいきたい気持ちになる」とまで書いているのは、やはり一種の浪漫的創作のなせるわざではないかと直観的に思うのです。

 

 もちろん「空中に文字を書くのは覚えたいことを確認するため」とか、「耳をふさぐのは人が気にならない音が気になる」とか「人の眼を見て話さないのは人の声を聞いているから」などというさもありなんという、いかにも合理的な回答が提出されている場合も多いですから、いちがいには言えませんが、全部が全部自動的に「正しい」わけでも、他のすべての自閉症児者に共通する回答でもないことは明らかでしょう。

 

 本書が世界で恐らく最初の「自閉症児者による自閉症児者の内面の自己分析書」としての貴重な意義は高く評価できるとしても、だからといって全部の記述を鵜呑みにする訳にはいきません。

 

 悲しいかな自閉症児者の症状は、それほど多種多様で、複雑怪奇なのです。

 

 

生まれてきてすみませんともいわず黙って生きて黙って死んでゆく大勢の人たち 蝶人