蝶人戯画録

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鎌倉時代のテロルの現場を歩く その2 畠山重忠・重保追討事件

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茫洋物見遊山記第180 回&鎌倉ちょっと不思議な物語第342回

 

 畠山重忠は、源頼朝の挙兵に際してはじめは敵対するが、のちに臣従して武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄は「東国武士の鑑」と称された。

 

 政略結婚させられた木曽義仲の息子を暗殺されたときに大病を患った頼朝と政子の長女大姫を、自宅に引き取って療養させたのも畠山重忠で、そのことは大倉幕府の南御門、現在鶴岡八幡宮の東側の守衛口の前に建つ石碑にも記されている。

 

 重忠はかねてから北条時政の後妻牧の方の女婿平賀朝雅と軍事支配権をめぐって対立していたが、元久元年1204年、重忠の嫡男重保は、たまたま酒席で朝雅と口論になり、これを根に持った朝雅と牧の方が時政に「畠山親子に謀反の疑いあり」と讒言した。

 

 年下の後妻を溺愛する時政がこれを真に受けて、北条義時を総大将とする討伐軍が重忠を武蔵国二俣川、重保を鎌倉で謀殺した。畠山親子にすれば文字通り寝耳に水で、北条一族は安倍内閣と同様こういう卑劣な暴挙を行ったのである。

 

 この合戦では、鎌倉十橋のひとつ琵琶橋付近で激しい市街戦が展開されたが、明治二十五年、江ノ電和田塚駅の傍らにこの合戦のときのものと思われる大量の人骨が出て来たので、この地に「和田一族戦没地」の碑が建てられた。

 

 また現在鎌倉第一小学校の前には立派な宝篋印塔が立っているが、これはアホバカ北条のいいなりになっておっとり刀で馳せ参じた三浦義村によって武運つたなく討ち取られた畠山重保の墓と伝えられる。

 

 畠山一族の若武者たちは北条・三浦軍と戦いながら由比ヶ浜辺までじりじりと南下し、その多くがこの海岸で恨みを呑んで戦死したが、わが敬愛する歴史学者故小丸俊雄氏の名著「鎌倉物語」を紐解くと、氏が砂浜を散策中に、彼らの大臼歯と思われる美しい歯が陽光にキラリと輝く挿話が紹介されていて涙と感動を誘う。

 

 若く妖艶な後妻の色香に溺れて、何の罪科もない立派な御家人を文字通りだまし討ちにした時政は、これによって年来の野望であった武蔵国と侍所司の最高権力者である別当の地位を略奪したのであったが、その後政子と義時から三大将軍実朝に謀反を企てたとして謀られ失脚するのである。

 

 以上はNPO法人鎌倉ガイド協会の資料をもとに一部小生が改変しつつ記述いたしました。

 

 

   由比ヶ浜の砂の下に昏々と眠り続ける若武者の歯よ 蝶人