蝶人戯画録

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出光美術館で「田能村竹田展」をみて

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茫洋物見遊山記第185回

 

 田能村竹田は江戸時代後期、というより幕末の南画の画家で、今年が没後180年に当たるそうです。

 

 会場に彼のお得意の山水画がたくさん並んでいましたが、私は山水画は好きですが、その山水をものような「精妙無窮」の細密画筆致で顕微鏡的視野の元に描いた南画がどうも苦手なので、こりゃまた失礼しましたとばかりに会場をさっさと後にしました。

 

 同じ南画でも、竹田の先輩格の池大雅、与謝野蕪村、浦上玉堂、後輩でも富岡鉄斎なら私的にはまだ鑑賞に耐えるのですが、これは駄目だ。目の毒だ。

 

 しかし世の中にはもっと酷い南画を書く人物もいるもので、その代表がかの夏目漱石選手で、私は彼のくねくねぐちゃぐちゃと軟体動物のようなけたくその悪い山水画を眺めているうちに、だんだん胸が悪くなってきたことを思い出しました。

 

 漱石の作物だからといって世間では小説でも画でも揮毫でも世に二無き逸物として褒め称えているようですが、私は歳をとるにつれてはてなと首をひねる機会が増えてきました。本命の小説でも、このような病的な南画的表現が気になります。

 

 漱石が最晩年に描いていたこれらの幽霊的南画や写生画を、同じく最晩年に正岡子規が描いていた晴朗な水彩画と比べると、どちらが「即天去私」の悟達の世界を体現していたかがよく分かると思います。

 

 

 漱石君即天はたして去私なるや挙止虚私清私にして巨私巨資鋸歯 蝶人