蝶人戯画録

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残念な映画大特集

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闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.851、852、853、854、855

 

 

ロベルト・ベニーニ監督・主演・脚本の「ライフ・イズ・ビューティフル」をみて

 

 ロベルト・ベニーニに才能があることは認めるが、演技の味付けが濃厚すぎるので見物していて疲れる。

 

 それにいくらなんでもナチの強制収容所での出来事を子供に対して一種のゲームのように偽装しおおせるということは、現実としても映画の世界の虚構としても無理が過ぎるのではないだろうか。

 

 深刻なテーマを深刻に描かず、ちょっと捻った角度から喜劇的に描こうとする意図は分からないでもないが、その変則的な課題に成功したとはいえない。

 

 そのことは、同時代の悲劇を一人のピアニストを主人公にして真正面から描いたロマン・ポランスキーの戦場映画と比べるとよく分かるだろう。

 

 ナチやムッソリーニ日帝ファシズムと暴威が荒れ狂ったあの時代は、ほとんどすべての民草にとって「ライフ・イズ・ノット・ビューティフル」であった。人間どんな時代にも清く正しく美しく生きたいのものだが、どっこいそうは問屋が卸さない。

 

 

ロマン・ポランスキー監督の「ゴーストライター」をみて

 

 主人公は、元英国首相の自叙伝のゴーストライター。この元首相がどうやら元CIAの悪い奴だということがだんだん分かってきて政敵の外相に接近するのだが、時すでに遅かった。

 

 というような生臭い政治がらみの陰謀噺を映画で見せられても実際の政治のほうがもっとリアルでドラマチックだからどうということはないわね。

 

 いくら監督が才能豊かであっても。

 

 

○ドゥニ・アルカン監督の「みなさん、さようなら」をみて

 

原題は「野蛮人どもの来襲」ずら。

 

 末期ガンの元社会主義者の教授の最期の日々を息子が金にものをいわせて父親の友人知己を病室に呼び寄せ、しあわせな安楽死を遂げさせてやるという「現代の美談」であるが、すべてが絵空事のようで白けてしまいますな。

 

 マルクス主義から実存主義構造主義ポストモダンなどイデオロギーの変遷を回顧するシーンは笑える。

 

 

ジュゼッペ・トルナトーレ監督の「ニュー・シネマ・パラダイス」をみて

 

 みるたびに素晴らしいなあと感心する映画とそうでない映画があるが、これは「風と共に去りぬ」なんかと同じで後者の代表選手なり。

 

 映画を愛する少年と映写技師の交情を描きながら映画へのオマージュを捧げる映画、という趣旨に反対はしないし、見物しながら感動したり涙の一粒、二粒くらいはこぼれないこともない。

 

 けれども演出も脚本もキャメラも音楽すらもいまいちだし、これに映画芸術としての値打があるのかと厳しく問いただせば、ンなもんこれっぽっちもない大通俗映画の見本であることが分かる。

 

 まあそれだから腐敗堕落した米アカデミー賞なんかは取れたのだろうが、到底映画史に燦然と輝く傑作なんかじゃないことだけは確かだ。

 

 

デヴィッド・フィンチャー監督の「ソーシャル・ネットワーク」をみて

 

 私も日々愛用しているfacebookを開発した男マーク・ザッカーバーグの半生を描いたというのだが、もしこの映画で描かれているとおりの傲慢で権威主義的な学歴主義者で、女性への侮蔑主義者だとすれば、じつに最低の人物である。

 

 主人公は紆余曲折の挙句、史上最年少の億万長者になったわけだが、映画は主人公が手ひどく振られた初恋の女性にfbの「お友達」になってほしいとリクエストして、その返事を待っているところで終わるのだが、たとえ22世紀の終わりまで待っても、彼女から承認されることなぞありえないだろう。金はあっても唯一の幸せを失ったじつに哀れな男だ。

 

 なお2010年製作のこのアメリカ映画は懐かしの富士フィルムで撮影されているが、その紫色を主調とした沈鬱で主知的な色調が、かの能天気なあほばかコダックとは鋭く一線を画しており、2012年の撤退がかえすがえすも惜しまれるのである。

 

 

     三百万の死者のすべてを国会に招きて憲法改定発義するべし 蝶人