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蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

中上健次著「中上健次集五」を読んで

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照る日曇る日第808回 

 

 

中上健次というと蓮実重彦江藤淳奥泉光などの作家や評論家諸氏が手放しの大賛辞を贈って褒め称えているんだが、彼らのその論拠を読んでもてんで理解できないのは、思うにその尊崇と跪拝が都会的な青白きインテリゲンちゃんたちのピテカントロプス直立原人風土方作家に対する肉体的精神的コンプレックスから発しているからなのであって、精神より肉体、脳より金的、論より俗情、人工より自然、近代より古俗、中心より周縁、都会より田舎、銀座より路地、正統より異端、現実より聖なる幻想に力点を置いた中上流の文芸をダイアモンドのような希少種、貴重種と勘違いして過大評価しているにすぎないことは、ここに収められた「枯木灘」をじっくり読んでみればすぐに分かることなのだが、文章なんかプロにあるまじき小学生もどきの下手糞さだし、おんなじ話をこれでもかこれでもかとまるで痴呆のように繰り返しているし、その話柄ときたら自分の先祖が尻くらえ孫一だとか、実の父親とそうじゃない父親がおり、それぞれに息子と娘、すなわち義きょうだいがどっさりいて、そのきょうだいの妹の方と寝たとか、そのきょうだいの弟のほうをカッとなって殴り殺したとか、大関松太郎の「虫けら」みたいに土を耕すのが快楽だとか、まあそんなある種の悪く言うと与太話の連続であって、確かにそんな家族や若い衆が昔紀州の田舎の路地にいたかもしれないし、いなかったかもしれないけれど、もしいたとしても南米のボルヘスマルケスとかリョサの日本人版の焼き直しのようなもので、格別珍しくも面白おかしくもない「親の因果が子に報うた」ような、昔からある奇妙な絆と血に結ばれた家族の過去現在そして未来の係累話であるからして、どうということもない、ある意味では本人以外にはなんの関心もない「ああそうですか」とでも挨拶するしかないような、好いた惚れた憎んだ殺した牢屋に入ったまた出てきたというような、毒にも薬にもならない与太話を、青大将がひっくり返って白い腹を捩じらせているような文章で、牛がよだれを垂れ流しながら何度も反芻するがごとく、ぐちゃぐちゃ延々と長引かせているのは、当時の編集者から「なにがなんでも長編小説を書け」とはっぱをかけられたからで、我思うに、この作家の実力からすればこの無意味な長さのおよそ1/3の長さでびしっと引き締まった珠玉の短編を書くことができたに違いないが、それでもやっとこさっとこ書き終えることが出来たのは、例のお得意の集計用紙に書き殴りながら「そのBGMにバッハのブランデンブルグ協奏曲を用いたからだ」と御本人は回顧しているようなので、「同じバッハならどうしてグールドが弾くゴールドベルク変奏曲を鳴らさなかったのか」と尋ねようとしたのだが、あいにく当の本人はとっくに泉下の人となってしまっているのだった。

 

 

   百万言のご丁寧なご説明は不要ずら違憲戦争法案を撤廃せよ 蝶人