蝶人戯画録

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夏目漱石の「それから」を読んで

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照る日曇る日第811回  

 

 朝日新聞に連載されていた「それから」が昨日で終った。

 

 漱石は、著者は前作の「三四郎」のそれからを描いた続編であると広告していたが、実際に書かれたのはまったく違う話だった。

 

 主人公の代助は熊本生まれのとっぽい元大学生ではなく、東京に生まれ育った金持ちの息子の「高等遊民」であるし、田舎者の三四郎などが何回生まれ変わっても転生できないような洒落者である。

 

 作品の前半から中盤までは、前作までと同様、漱石がこれまでにセッセセッセと貯め込んだ学識的貯金を取って出す落語か漫才のような哲学的人生論の連続で、せっかく帝大を卒業したというのに就職もせず、俄か成金の親の脛かじりにくせに世界が自分を中心に回転しているような空疎な妄言を延々と吐き続ける代助と漱石に対して、「この野郎、いい加減にさらせ」と頭に来ない読者はいないだろう。

 

 ところがそんな主人公の前に、親友の妻となっている初恋の人三千代が登場した時から、この能天気な阿呆莫迦哲学談義で終わるかと思われた小説は、うぶな「三四郎」の初恋なぞをぶっ飛ばす“命懸けの大恋愛小説”へとおお化けし、この愚かな「高等遊民」は遅まきながら明治日本の裸の現実と激突するのである。

 

 森鴎外尾崎紅葉と違って“偉大なアマチュア小説家”である漱石の文章は、しかし代助の家を訪れた三千代が鈴蘭と百合を生けた器の水を飲み干すところで強烈なエロスを発散し、因循姑息な職業小説家の月並みを一挙に破砕してしまう。

 

 さうして代助が愛を告白した第92回に至ると、蒼白になった三千代が「仕様がない。覚悟を極めましょう」という恐ろしい台詞を吐くところで、この小説とこの男女の愛は最高潮を迎え、第100回の会話「希望なんかないわ。何でも貴方のいう通りになるわ」「漂泊―」「漂泊でも好いわ。死ねと仰しゃれば死ぬわ」において、2人は近松門左衛門の「曽根崎心中」の登場人物となるのである。

 

 働かざる者は喰うべからず。麺麭がなければ世紀の恋も死ぬほかはない。麺麭を求め、職を求めて電車道に飛び出した代助の真っ赤なシルエットは、さながらドイツ表現主義映画のカリガリ博士の彷徨を思わせる。

 

「門野さん、僕はちょっと職業を探して来る」と言って日盛りの表へ飛び出した代助は、「焦る焦る」と言いながら飯田橋から電車に乗り込むが、すでにして全世界は紅蓮の炎を巻き上げて燃え盛っている。

 

 ここから一瀉千里に続く怒涛のクライマックスは、まさに漱石文学の独壇場という他はないだろう。

 

 

 高等遊民には及ばずともせめて下等遊民で死にたいなと夢見る今日この頃 蝶人