蝶人戯画録

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林望訳「謹訳源氏物語十」を読んで

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照る日曇る日第612回

 

大谷崎、与謝野、円地、瀬戸内その他源氏の翻訳はあまた存在するわけであるが、この林訳の大きな特徴は、橋本治、アーサー・ウェイリーと同様に、すらすら読めて意味がまことに明快であることだ。

 

橋本は「話者」が光源氏であるから当然のことだが、他の多くの翻訳が主語を原文通り「老いたる女房」とし、登場人物の言動を敬語や謙譲語や丁寧語のヴェールの外側から婉曲に表現してきたのに対して、この謹訳ではアーサー・ウェイリーと同様、主語がニュートラルな「小説の語り手」となっている。

 

これからも源氏の翻訳は沢山登場するだろうが、この主語の戦略的で大胆な改変こそが、林謹訳の成功の最大の要因であったといえよう。

 

さて楽しみながらとびりちびりと読み進めてきた本シリーズも、いよいよこれが宇治十帖の最終巻。草食派の薫の右大将に囲われながら、例によって肉食派の匂宮に強姦され、女としての肉の喜びを知ってしまった浮舟は、二進も三進も行かなくなり、よんどころなく宇治川に身を投げるが、死にきれずに救われる。

 

このあたりは実際に宇治川のほとりに立って思いがけない広さの川幅を意外な速さで急進する青緑色の激流をぢかに見ないと、哀れな浮舟の悲愴な心根(そして「平家物語」の佐々木・梶原の先陣争いの物凄さ!)は理解できないだろう。

 

本当は死んだ方が三人の為には良かったのかもしれないが、なぜか生き残ってしまった美貌の女ひとり。彼女を巡って再び二人のアホ莫迦貴族の恋の鞘当の第二部が始まるのか、あるいは浮舟はまたしても激流に身を投じるのか、最終巻の「夢浮橋」はいまなお巨大な謎を我々に突き付けながら、「世界最古の長編小説」は突如その幕を閉じるのである。

 

 

 

たった七票差で市議選に敗れた若者四年後に備え翌日から動く 蝶人