蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

2007-06-01から1ヶ月間の記事一覧

宮城谷昌光著「風は山河より」第3巻を読む

降っても照っても第29回若き日の徳川家康は父広忠の意向で今川義元の人質として差し出されたが、その途次の汐見坂で戸田正直によって誘拐され、ほんらい駿府へ行くべきところを織田弾正忠(信長の父)に売られ一時尾張城に幽閉された。天下の怪事件である。…

高田馬場駅前にて

遥かな昔、遠い所で 第7回何年ぶりかで下車したのは、知らない間にすっかり新しくなったJR山手線の高田馬場駅である。昔はもっと暗くて重くて澱んだ空気が流れていたが今ではあっけらかんとして他の駅とあまり違わない。地方から東京に出てきた私は、ご他…

加藤廣著「明智左馬助の恋」を読む

降っても照っても第28回この新人老作家の「信長の棺」は「信長公記」の作者太田牛一が本能寺の変の謎に果敢に挑んで大いに面白かった。その次の「秀吉の枷」も本能寺と南蛮寺を結ぶ抜け道で信長が蒸し焼きになるように秀吉がたくらみ死に追いやったという、…

ある丹波の老人の話(35)

「第6話弟の更正 第3回」 昼ごろになると朝のお粥腹がペコペコに減ってきたので、いろいろ考えた挙句寂しい村のある百姓家に入り、「昼飯を食べ損なって困っているからなにか食べさせてください」と頼むと、米粒の見えないような大麦飯にタクワン漬けを添え…

ある丹波の老人の話(34)

弟はメジロ捕りが上手でメジロを売って儲けた十幾銭かの金を、後生大事にこのとき京都に持っていったもんでした。でもこの大切なお金を含めても私は家を出るとき少しばかりの旅費しかもらわなんだので一文の無駄遣いをしたわけでもないのに、このとき財布に…

ある丹波の老人の話(33)

「第6話 弟の更正 第1回」私には金三郎というたった一人の弟がありました。この弟が十三、私が十七のとき、忘れられん思い出があります。そのとき私は蚕業講習所を卒業したばかり、弟はまだ小学校在学中でしたが、家は貧乏市までして貧窮のどん底まで落ちて…

ある丹波の老人の話(32)

妻はどこまでも父に親切でした。独りでは寂しかろうと福知山の実家に相談して、身内から後家さんを連れてきて一緒にし、離れの一室をあたえて寝起きさせたんでしたが、二年ほどすると女が病死してしまいました。すると今度は町内のさる後家さんに話して、西…

ある丹波の老人の話(31)

この冷たい私に対して私の妻菊枝は父に対してやさしかった。食事を与え、着替えをさせ、暖かい寝床に横たわらせ、心から父をいたわりました。そしてその後もけっして悪い顔などせずに機嫌よく明け暮れの世話をし、私に内緒で小遣い銭なども渡し、いつもきち…

父帰る

ある丹波の老人の話(29)大正五年の師走も近い冬の夜、丹波の小さな街には人声も絶え通りを吹きぬける寒い木枯らしがときおりガタガタと障子を震わせておりました。真夜中近い頃、入り口の戸をホトホトと叩く音がしました。静かに、あたりを憚るように…。「…

福島泰樹著「中原中也帝都慕情」を歩く

降っても照っても第27回大正14年3月、恋人長谷川泰子を伴い関東大震災後の東京にやって来た17歳の詩人中原中也の帝都漂泊を絶叫詩人の著者が克明に追う内面的なドキュメンタリーである。中也が東京に標した第一歩は、「東京府豊玉郡戸塚町大字源兵衛195番地…

大塚英志著「怪談前後 柳田民俗学と自然主義」を読む

降っても照っても第26回柳田國男が「遠野物語」の佐々木喜善、「蒲団」の田山花袋、同じ自然主義作家の水野葉舟との交友を通じていかにして柳田流の「自然主義」を追求し、国家社会や文芸と向き合いながら、花袋が私小説を創造したように、学としての「民俗…

ある丹波の老人の話(29)

前にも述べたとおり、私の父は酒好き、遊び好きで、飲む打つ買うの三拍子をいずれ劣らず達者にやった人でした。ところがそれがいつまで経っても目が覚めず、四十過ぎても、五十子越してもまだやまず、かえってひどくなるというだらしなさです。父はもともと…

避暑地鎌倉

鎌倉ちょっと不思議な物語62回 大町から横須賀線の線路を境にしてそこから海岸までの一帯が材木座である。鎌倉時代に材木業者の組合=座が置かれた場所であることからこの名がつけられた。鎌倉は明治時代から夏の避暑地として大いに活用され、まず御成に明治…

ある丹波の老人の話(28)

しかし思わぬ副産物もありました。このとき大勢の芸者を呼んだもんですから、私は急に芸者にもてるようになり、つきまとわれるようになりました。当時私は三十三ですからまだ若かったし、うかうかするとこの誘惑に負けて父の二の舞になるんではないかと我な…

ある丹波の老人の話(27)

振り返れば、私の貧乏は父が隠岐へ逃げた大正元年と翌二年がもっとも酷かったんですが、三年を境目に下駄屋の商売がだんだん順調に行きだして、だいぶん楽になってきよりました。ほんでもって大正四年、五年とお話したように株で大いにもうけて「株成金」と…

「私が独裁者?モーツァルトこそ!」チェリビダッケ音楽語録を読む

降っても照っても第25回「農夫が朝歌を歌うとき彼は純な音楽をやっている。彼は今日という朝がいかに美しいかを歌う。ここに芸術のもっとも深い意味がある」 「どんなテンポも表現の豊かさによって定義される。速度によってだけでなく」「フルトヴェングラー…

ドナルド・キーン著「渡辺崋山」を読む

降っても照っても第24回渡辺崋山は西洋流の遠近法や近代的なリアリズム手法を独自に体得した画家、とりわけ肖像画の名手として知られている。特に文政4年に描かれた「佐藤一斎像」、国宝の「鷹見泉石像」は江戸時代の風物を精確にスケッチした「一掃百態」…

乱橋から妙長寺へ

鎌倉ちょっと不思議な物語61回「乱橋」は鎌倉十橋のひとつである。道路の端にあるのでほとんどの人が見逃すほんの小さな短い橋だが、ときおり「吾妻鏡」に登場する。この近所には横溝正史や大仏次郎が住み夏目漱石も家族と共に訪れている。すぐ傍にある妙長…

材木座海岸から和賀江島を見る

鎌倉ちょっと不思議な物語60回 昔も今も、由比ガ浜は遠浅で波風が高い。それで現在も多くのサーファーが集まってくるのだが、鎌倉時代はとかく難破船が多かった。そこで勧進上人往阿弥陀仏は、貞永元年1232年の7月に築島を思い立ち、幕府に申請して認め…

鎌倉の海岸を歩く

鎌倉ちょっと不思議な物語59回鎌倉には幸いにも海がある。鎌倉の海といえば、徒然草の第百十九段に、かの兼好法師が 「鎌倉の海に、かつをと云う魚は、彼のさかひにはさうなき物にて、この頃もてなすものなり。かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入…

富岡多恵子著「湖の南」を読む

降っても照っても第23回明治24年5月11日に琵琶湖の南で大事件が起こった。世に名高い大津事件である。 本書は、ロシア皇太子ニコライを警護すべき立場にありながら、突然サーベルで彼の後頭部に切り付けて負傷させた警官津田三蔵の生と死を克明に追跡す…

ある丹波の老人の話(26)

数奇な運命にもてあそばれ、しばしば逆境にさいなまれておった私ですが、いつもすくんでおったわけでもなく、たまには青年らしく私なりに熱い血を燃やして立ち上がったこともありました。私は案外早く貧乏暮らしから足を洗うことができるようになると、だん…

♪蟻地獄の歌

♪ある晴れた日に その9何をする気もなくなって神社に行くと強い風が吹いていた。『風が立ち、波が騒ぎ、無限の前で腕を振る』というやつだ。階段を上って神社の入り口の右側に直径1尺くらいの玉石がごろんと転がっていた。こいつは文久二年に寺田屋騒動が起…

レイモンド・カーヴァー著・村上春樹訳「大聖堂」を読む

降っても照っても第22回 アルコール依存症を辛うじて脱し、好伴侶テス・ギャラガーを得て創作に勤しむカーヴァーが書き上げた短編小説の傑作の森が本作である。いずれもいわゆる珠玉のような完成度を誇るが村上氏が評価しているように「ささやかだけど、役に…

小さな橋の上で

♪バガテルop21こんばんは。こんばんは、今夜はどうですか?ほら、いま飛んでるでしょ、水のうえを。ほんとだ。木の上にも別の奴がいますね。ほんと、さっきから見てるんだけど今日は少ないわね。7、8匹でる時もあるのよ。ここら辺のホタルは6月初旬から中…

ある丹波の老人の話(25)

それから波多野翁は、若い私に向かって、“積極と消極”ということについて語られました。当時この用語はまだ一般世間では珍しかったんですが、翁はこの当時流行の新語にことよせて私に処世の要諦を説かれました。翁は“積極”については、自分に確信があったら…

レイモンド・カーヴァー著・村上春樹訳「愛について語るときに我々の

降っても照っても第20回男がアルコールとニコチンと女を知ることは、つまりは人生を知ることだ。しかしそれは人生の毒を知ることでもある。本書は十二分に毒が回ったカーヴァー自身の、酒と愛と辛苦と労働の日々を記念する短編集である。とりわけ表題作は生…

小西さんと吉本さん

降っても照っても第19回小西甚一さんが91歳で逝去された。91年に刊行された彼の「日本文藝史」はドナルド・キーンの大著「日本文学史(のちに改訂新版「日本文学の歴史」)に対抗して書かれた規模雄大な大著だが、細部はキーンのがほうがおもしろい。されど…

宮城谷昌光著「風は山河より第5巻」を読む

降っても照っても第19回信長が激賞し、家康に恃まれ、信玄が欲しがった防守の名将菅沼新八郎の戦いを描く一大歴史小説がこれにて終った。知られざる三河の戦国期をはじめて教えてくれた著者には感謝するが、これこそ竜頭蛇尾小説の典型だろう。所詮この主人…