蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

材木座海岸から和賀江島を見る


鎌倉ちょっと不思議な物語60回


昔も今も、由比ガ浜は遠浅で波風が高い。それで現在も多くのサーファーが集まってくるのだが、鎌倉時代はとかく難破船が多かった。

そこで勧進上人往阿弥陀仏は、貞永元年1232年の7月に築島を思い立ち、幕府に申請して認められた。時の執権(武州と称される)は北条泰時であった。

吾妻鏡」の同年7月12日の条には、「今日、勧進上人往阿弥陀仏申請に就きて、舟船著岸の煩なからんがために、和賀江嶋を築くべきの由と云々。武州殊に御歓喜ありて、合力せしめたまう。諸人また助成すと云々。」とある。

また同月15日条には、「今日、和賀江嶋を築き始む。平三郎左衛門尉盛綱行き向かうと云々。」

さらに8月9日条には、「9日丁巳 晴る。和賀江嶋その功を終う。よって尾藤左近入道、平三郎左衛門尉、諏方兵衛尉御使として巡検すと云々。」と書かれているとおり、泰時はじめ諸人の協力によって工事はわずか1ヶ月足らずで終了した。

和賀江島は江戸時代に入っても修復を行いながら活用されていたが、明治時代になって現在のように潮の干満によってほぼ水没したりかろうじて姿を現すような状態になった。

しかし国の史跡であるこの小さな人工島が日本で唯一の鎌倉時代の港であることは間違いない。(左の建物は川端康成が自殺した逗子マリーナ)

波のまにまに露頭する岩をじっと眺めていると、これが天と地、過去と現在をかりそめに繋げている夢の浮橋のような気がしてくる。