蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

鎌倉の海岸を歩く


鎌倉ちょっと不思議な物語59回

鎌倉には幸いにも海がある。

鎌倉の海といえば、徒然草の第百十九段に、かの兼好法師
「鎌倉の海に、かつをと云う魚は、彼のさかひにはさうなき物にて、この頃もてなすものなり。かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ」と書いている。

昔は下々の者も馬鹿にして食べなかったのに最近は高貴な方たちが競って口にしている。ああ世も末じゃと嘆いているのである。

これが12世紀の話だから800年後の今日ますます世も末現象が進み、カツオはマグロやアジと同様庶民の口からますます遠ざかりつつある。そのうち高級も大衆もつきまぜてあらゆる魚が世界の上ざまの人々の食卓で独占されるようになるだろう。

そんな世も末の鎌倉の海辺を歩いてみた。海の向こうに船が見えた。

鎌倉幕府の3代将軍実朝が渡宋を計画し、南宋の陳和卿に船を造ることを命じたのは建保4年1216年の11月だった。

陳和卿は12世紀の末に来日し勧進上人の重源と共に焼失した東大寺の再建に貢献した当代一流の総合技術者だったが鎌倉に下って実朝に信頼され、彼に政争相次ぐ日本を離れて大陸に逃走することをすすめた。

しかし巨費を投じて建造した巨船はあまりにも重くつくりすぎたのか数百人の人夫を水中で引かせてもいっかな動こうとせず、とうとう遠浅の海底にどっかりと座礁したままいたずらに朽ち果ててしまった。

この様子を描いた文芸作品には、太宰治の名作「右大臣実朝」や澁澤龍彦の「ダイダロス」(この2人は鎌倉に浅からぬ因縁を有している。太宰はたっぷりと腰越の海水を飲んだ)、それに吉本隆明の名著「源実朝」がある。

吉本がこの著作を書いているときに、突然思いついて夕方の鎌倉にやって来て頼朝の墓を捜し求める。けれども結果的に「一山ほど間違えて」黄昏の中で途方に暮れる個所は印象的だ。

似たようなことをしたことが私にもある。遠く若き日の直情径行振りはひたすら懐かしく、思い出の中で小さくまたたいているようだ。