蝶人戯画録

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丸谷才一著「丸谷才一全集第12巻」を読んで

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照る日曇る日第742回

 

 文春から出た全集の最終巻で「文芸時評」「芥川賞谷崎賞などの選評」、「匿名時評」に加えて新発見の2つの小説、書誌、年譜がおまけについています。

 

 いちばん面白かったのは時評、選評でした。

 

 たとえば、「芥川比呂志の文章は、父親の龍之介よりむしろ森鴎外の流れを汲むが、その鴎外にはない新鮮さと自然さがある」と称えたり、吉行淳之介の随筆集「なんのせいか」を「パンチがきいている」と褒めたりします。

 

 ここで著者は、軟派の代表であるはずの吉行淳之介高橋和巳の「散華の精神」の“散華”に腹を立てて、「“散華”どころか“犬死”なのである。この本に登場する人物はすべて強制的に“犬死”させられたのである。後に残った人々がそう認識することが、彼らに対する“慰霊”なのである」と時流に逆らって見事にタンカをきったを宣揚しているのです。

 

 1975年の「文学界新人賞」は受賞作なしになったそうですが、著者は不毛な候補作7篇について論評するかわりに、「せめて君ひとりくらい君が面白いと思っていることをもっと面白がって小説を書きませんか」と新しい書き手に直截呼びかけていて、これは30年後の現在でも切実に響くような訴えになっています。

 

 そしてその末尾にいわく。「文学賞がもらへないと判ってゐるにに小説を書くのは、時間の浪費だと言ふ人もあるかもしれません。しかし、文学といふのはもともと暇つぶしなのです」

 

 そう。今も昔も文学って暇つぶしだということを、我々は時々忘れてしまうんですね。

 

 イカン、イカンと思った私は、彼が眠る霊園の墓を探そうと散歩に出かけたのですが、偉大なる丸谷選手が広大な墓地のさてどこに眠っているのかてんで分からず、あかあかと燃える西の夕空に白く輝く富士山をしばらく見物してから帰路についたのでした。

 

 

    散華とは国が強いたる犬死にと思い知るこそ慰霊なりしを 蝶人