蝶人戯画録

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日本文学全集「中上健次」を読んで

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照る日曇る日第761回

 

 本巻の大半は「鳳仙花」で、あとは「千年の愉楽」、「熊野集」からの数編をオマケにつけたものであるが、本命のグリコの「鳳仙花」のセレクトは大正解で、これはもしかすると著者の最高傑作ではないだろうか。

 

 というのも「岬」「枯木灘」「地の果て 至上の時」の秋幸三部作では、確かに路地に生きる人々の土俗的血脈的なサガとサーガが濃厚に描かれているとはいえ、その本質は新しい現代文学というより、著者が生けるイタコとなって口寄せる古代=現代の熊野の地霊・精霊の“ダダカタリ”の類であると考えられるからである。 

 

 秋幸三部作は完結したが、彼の一族をめぐる盛衰の物語は、著者の命ある限りは永久に続いただろうし、それらの集積は、もはや文学であって文学ではない何か、個人史を超えた紀州熊野の古代⇔現代人の集合意識、「無名にして共同なるもの」(田村隆一「灰色のノート)のようなものになっただろう。

 

 実際それらの作品を読んでいると、著者がもはや言葉や文芸の細かな定則などには一切顧慮せず、六波羅蜜寺空也上人のように、あるいは諸国一見の高野聖のように、ある種の法悦境(ライティングハイ)に浸りながら、有難いお経をひたすら垂れ流している感が強いのである。

 

 しかし秋幸の母フサの半生を鮮やかに切り取った「鳳仙花」は、そのような呪文ダダモレの非文芸世界と鋭く一線を画した現代純文学の傑作である。

 

 

  耳を澄ましてごらん「無名にして共同なるもの」の唄が聞こえるでしょう? 蝶人