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蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

鎌倉時代のテロルの現場を歩く その1 比企能員謀殺事件

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茫洋物見遊山記第179 回&鎌倉ちょっと不思議な物語第341回

 

 比企能員(よしかず)は源頼朝の乳母比企尼の養子で、その縁で頼朝の信任が厚かった。

頼朝の嫡男頼家が生まれると、彼の妻がその乳母、能員も乳母父となり、あまつさえ能員の娘若狭局は、頼家の側室となって嫡男一幡を産んだので、大きな権力をもつようになった。

 

 これに大きな危機感を懐いたのは頼家の母北条政子とその父時政である。時政は、建仁3年1203年9月2日、能員を彼の名越の邸宅に仏事にことよせて招き、いきなり謀殺してしまった。

 

 時政と示し合わせた尼将軍政子は、これは謀反であると称して比企氏討伐の命を下し、北条義時、泰時以下多くの軍勢が比企氏の館を取り囲んで日火を放ったので、頼家の妻若狭局はとその子一幡も死んでしまった。

 

 その後頼家は時政を討とうとしたのだが、和田義盛の裏切りによって成功せず、母政子によって出家させられて伊豆の修善寺に送られ、時政の刺客によって暗殺されてしまった。

 

 比企氏を滅ぼした北条氏は頼朝の次男実朝を3代将軍に就け、時政がその執権となったが、これら一連のクーデターほど北条一族の悪辣非道を雄弁に物語るものはないだろう。

 

 比企一族の屋敷跡には能員の末子比企能本によってここ比企が谷に日蓮宗長興山妙本寺が建てられ、祖師堂の右手にある四基の五輪塔は一族の供養塔であり、手水舎の脇の五輪塔は6歳で死んだ一幡の袖を祀る「一幡の袖塚」である。

 

 乱の最中、若狭局は家宝を抱えて井戸に飛び込み自害したと伝えられるが、比企が谷の一角には、その57年後の文応元年1260年、恨みを遺して死んだ若狭局の霊が執権北条政村の娘にとり憑き、娘が蛇のような狂態をみせるようになったので、若狭局を蛇苦止明神として祀る政村が建てた蛇苦止堂がある。

 

 若狭局はこの御堂の近くにある井戸に飛び込んだのではないだろうか?

 

 以上はNPO法人鎌倉ガイド協会の資料をもとに一部小生が改変しつつ記述いたしました。

 

   鎌倉の御成通りに太鼓屋できたドデスカデンドデスカデンデン 蝶人