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蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

河出版「日本文学全集03」を読んで

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照る日曇る日第843回

 

竹取物語」の現代語訳を森見美山彦、「伊勢物語」を川上弘美、「堤中納言物語」を中島京子、「土左日記」を堀江敏幸、「更級日記」を江國香織がそれぞれ担当している。

 

森見の「竹取物語」と江國の「更級日記」は比較的オーソドックスな置き換えで素直に鑑賞できる。川上弘美の「伊勢物語」は切れ味鋭い散文詩のようで見事。

 

30段の出てくる「逢ふことは玉の緒ばかり思ほえてつらき心の長く見ゆらむ」を「一瞬 恨みは 永遠」とやっつけるなんて他の誰に出来るだろう。

 

中島京子は「堤中納言物語」の和歌すべてを現代短歌にほんやくするという離れ業を見せてくれる。

 

例えば、「おぼつかな憂き世そむくは誰とだに知らずながらも濡るる袖かな」を「なぜかしら 出家なさるはどなたかを知らぬながらももらい泣きする」と、鮮やかにまとめてしまう。 

 

パチパチ! これがどれほど大変か、君も一度やってみればよく分かるだろう。

 

が、堀江敏幸の土佐ならぬ「土左日記」は藤原定家による外題付きの写本に拠っていて、「土佐日記」のかな文字と紀貫之になりきった堀江の仮名漢字混淆文の「土左日記」とが入り混じっているので、読みにくいばかりか何が何やらわからぬ判じ物になっている。

 

 堀江は、貫之の内面を想像してその空想的な文章を前段に置き、本文は定家本の字面に似た文字列を並べ、そこに貫之が適宜自注を施していくという一種の「メタフクション」を目指したとかほざいているのだが、んなこたあ誰も頼んじゃあいないぜ。

 

 どうして森見選手のように「原文にない事柄はできるだけ補わない」やり方で淡々と現代語訳しなかったのだろう。それがいやなら本巻とは別の書物でそういう試みをすれば良かったし、こういう勝手な振る舞いをまかり通らせている編者池澤夏樹にも問題なしとしない。

 

 

     早大の学費学館半世紀絶叫はせず黙して偲ばむ 蝶人