蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

宗教的情熱について

宗教的情熱について

政治と宗教に熱中することほど危険なことはない。

政治と宗教は敵に寛容ではない。「汝の敵は、殺せ!」という恐ろしい呪文を胸に、あのオウムも、クロムウエルもルターも、ジャン・カルバンもブッシュも、ビンラディンも、キリスト教の新旧両派も、イスラムの原理主義も、敵を倒し、殲滅することに昨日も今日もそして明日も情熱を傾けるのである。

政治と宗教の本質は、恋愛と同じように原因不明の病いである。

それは猛毒ウイルスの伝染病のように一世を風靡し、嵐のように来たって、また嵐のように去る。

闘争の当事者は、この嵐の来襲に理性的に対応することは不可能である。ただ嵐に向かって立ち上がり、嵐によってなぎ倒され、その間におびただしい敵を殺し、敵からも殺戮され続ける。そうしていつの間にか嵐の季節は終るのである。

私は大本教の本拠である裏日本の山陰の街に生まれ育ったが、この小さな盆地にはさまざまな流派の仏教とキリスト教、大本教から天理教、黒住教、創価学会にいたるまでの新興宗教がほとんど全部揃っていて、いわば選り取り見取りであった。

私が親の指令で通っていたプロテスタント教会のある牧師は、ある晴れた日曜日の朝、教会の窓ごしに見える巨大な新興宗教の本殿を指差して叫ばれた。

「見よ、あれなる悪魔の宮殿を。すべての多神教は邪宗である。サタンよ、退け!」

 そのマルチンルター張りの説教があまりにもかっこよすぎたために、いらい私はなぜか「一神教は多神教よりも優位に立つ」という迷信を盲目的に信心するようになり、そのデマゴギーから自らを解放するまでに長すぎた無駄な歳月を必要としたのだった。

 ところでその危険な2つの麻薬である宗教と政治をミックスした組織といえば、ドイツではキリスト教民主同盟、わが国では公明党ということになる。

いずれにせよ猛烈にエネルギッシュで触れば暴発する危険な政党である、か?、と一時は疑われた。特にかつて公明党の母体である(であった?)創価学会の布教活動は鎌倉時代の日蓮もかくやという凄まじさで、彼らの「折伏」攻勢にたじたじとなった人は数多かったものである。

私はかつて京都市左京区百万遍をちょっと上がって、叡電の線路をまたいでからちょいと左に入った田中西大久保町に1年間下宿していたが、この家の日蓮正宗=創価学会信者のおばあちゃんの朝晩の勤行は、静かな古都の四囲に鳴り響くほどに凄かった。

ところが昔はいざ知らず、最近の学会員は奇妙なまでにおとなしい。特に正宗系の大石寺と絶縁してからは、あの名物だった勤行時間も短縮することが許され、念仏のボルテージも昔日のそれに比べていくぶんトーンダウンしているようだ。

そればかりではない。公称827万、日本人の16%が学会員というこの巨大組織の内部ではさまざまな胡乱な現象が進行しているようだ。

我が家の近所には創価学会の人が多いし、かねてからこの宗教&政治コラボレーション集団に興味のあった私は、島田裕巳著「創価学会の実力」を読んでみた。

著者によれば、創価学会はかつては日蓮宗の1派である日蓮正宗を教学の基本にしていたが、90年代のはじめにこれと決別したために宗教思想の濃厚な核を喪失してしまった。

また創価学会は、かつては大石寺参拝や宗教大会などのセレモニーを通じて宗派全体のモラルアップを果たすことができたのだが、現在では選挙以外にその効果的な機会がなくなってしまったという。

さらに公明党は最大の宗教党派であるにもかかわらず、その内部では様々な問題が横たわっており、カリスマ池田大作ですら公明党や学会内部からの規制が働いて自由に動けない。ポスト池田が大問題だ、などと説いている。

このように学会や公明党に関する(私のような素人には)斬新な知見を随所で見出すことができる本書だが、この作者の文章力と構成が弱いためか、同じくだらない話題が何度も繰り返され、原稿料を版元から稼ぎたいのであろうか、さして重要とも思えない話柄をえんえんと引き伸ばしているのが気になる。この内容なら、本書の半分の原稿量で十分であろう。