蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

第二話 養蚕教師


ある丹波の老人の話(7)

私の家は、A町の目抜き通りで履物屋を営み、郊外に桑園を持ち、当時流行の養蚕もやっとりました。

そんな関係から丹波地方の蚕糸業の元締めで「郡是」(現在のグンゼ)の創立者であった波多野鶴吉翁とは懇意でごわして、私も子どものときから目をかけてもらっとりました。

私が小学校を出て十六のとき、波多野さんは自分が所長をしていた京都府高等養蚕伝習所(その後城丹蚕業講習所と改称)へ私を入所させろと父に説き、「年齢が二つ足らんが、それはなんとでもなるから」というてしきりに勧められるので、その熱意に押されてそこに入ることになりました。

生徒は大半がはたちくらい、中には二十六、七の人もいて、私一人がまだ子どもでした。

そこを卒業してから一と春、A町の養蚕巡回教師をしましたが、その後、そろばんが上手になるというのでその頃地租改正で忙しかった税務署につとめ、十八の年にはそのそろばんの腕前を買われて「郡是」に入り、事務所勤めが始まりました。

明治三十四、五年当時のこの地方では、個人が勝手に小額の切手を発行して、それがなんでかしらんけど貨幣同様に流通しておったんです。いまはやりの地域通貨ちゅうやつでしょうかね。

波多野さんの「郡是」でもこれを発行しておったので、私は切手作りで非常に忙しかったことを覚えとります。

春の養蚕期は「郡是」も休みなので、私は在勤中も毎年巡回教師に出ました。

十九のときに佐賀村の小貝に行ったんですが、その年は晩霜でひどい桑不足になり、由良川が真っ白になるほど誰も彼もが蚕を流しました。

しゃあけんど私は蚕を捨てさせず、急いで家に戻って父に説き、金つもりをさせて桑を買わせました。

こんなことにかけたら父はうまいものです。四方を走りまわって上手に桑を買いあさり、荷車に積んでドンドン小貝に運び込み、小貝は1匹も蚕を捨てずに無事に育ったんです。

おまけに上作の繭高とあって養蚕家はホクホク顔で大喜び。

私も思わぬ手柄をたてて、「若いけど、なかなかやるもんじゃ」ということになりました。