蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

降っても照っても 第9回

緑陰消閑


高橋源一郎「ニッポンの小説」
「文学とは遠くにある異なったものを結びつけるあるやり方です」と、語りながら始まる高橋教授の終わりなき大文学論。その真摯な思索に脱帽す。
とうとう中原昌也、猫田通子の「うわさのベーコン」を産出するにいたったニッポンの小説。文学は、インディヴユジアルを個人ではなく、一個人民、一身ノ身持、人民各個と訳していた時代にもう一度帰らなければなるまい。
はじめは処女のごとく、終わりは脱兎の如し。著者が最後に荒川洋治の「文芸時評という感想」を読み解きながら現代日本の小説を分析するくだりは迫力がある。

中原昌也著「KKKベストセラー」
小説家業は売春婦稼業だ。なにもアイデアなぞないのに、はした金のために身を粉にして売文を書くのが苦痛で仕方がない。卑劣な島田雅彦のような自分はハンサムなのに中原のような他人の醜い容貌を揶揄する卑劣な人権無視の小説家は大嫌いだ。ああ、嫌だ、嫌だ。早くこんな業界から足を洗いたい…。
と同封のCDでも世を呪い、己を呪う著者。
そんなに嫌なら書くのを止めろ。こんな無内容な駄文を江湖の読者に供する朝日新聞社も何を考えているのか。実に下らない。世も末だ。

G・ガルシア・マルケス「落葉」他12編
高橋源一郎は、ニッポンの小説は100年間にわたって死について直接描こうとしなかったと説くが、これやこのマルケスこそは源ちゃんが力説する「死」を描いた小説ではないだろうか? 中篇の「落葉」は全編に死の予感、いや死そのものが主人公としてあらゆる時間と空間を占拠し、ラテンアメリカ風諸行無常の仏教観がむなしく吹き抜ける。