蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

ある丹波の女性の物語 第4回


裕兄さんの事

 裕兄さんは私のすぐ上の兄である。上に正という長男がいたので、この次男が生まれた時から、佐々木家へほしいと何度か交渉していたらしく、「幸太郎」と言う名前まで用意していたという事である。

本人は綾部の伯父が来るたびに外へ遊びに出てしまい、ある時は風呂桶の中に入り、ふたまでして隠れていたと言う笑い話まである。結局私達姉妹の誕生によりこの話は消え、裕兄さんは綾部へ来なくてもいい事になった。

 そんな訳で、私が遠い丹波の地へもらわれていった事を、子供心にも責任を感じていたらしい。後年、雀部の父が関西に住む事になり、当時中学の裕兄さんも転校した。その中学は教室に生徒の成績順に名札がかけられており、学期末には、トップにその名札がかけられたとの事であるが、転校生「雀部裕」の名が最後の席次にあるのを、その学期中悔しかったそうである。

雀部の子供の中では、なかなかユニークな存在であったようで、両親に無断で受験、大阪外語大の合格通知がきた時は、家中でびっくりしたそうである。当時は戦時色の強い時代であつたので、「中国語蒙古学科」に入学、卒業後は華北交通に入社した。

その当時の北京からの葉書が私の手箱の中に何枚か残っている。北京がどんなにすばらしいか、空がどんなに美しいか等したためてある。いろいろと人並みの青春時代の悩みを持っていた私には、「思い切ってこの新しい天地へ出てこないか」という葉書の文字が今も心に残っている。

その兄もビルマで戦死してしまった。中国語や蒙古語は軍ではとても重宝され、その人柄は誰にも愛されていたらしい。運動は万能選手、ほがらかで、心やさしかった。苦学している友達に物資のない時なのに自分の外套をやってしまったと、母がこぼしているのを聞いた事がある。

ほんの何度かしか会っていないこの兄の事が、しきりに思い出されるこの頃である。


♪なだらかに 丘に梅林 拡がりて
五月晴れの 奈良線をゆく  愛子