蝶人戯画録

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田村志津枝著「キネマと戦争 李香蘭の恋人」を読む

降っても照っても第70回

最近は昭和史の本がたくさん出ているようだが、当時の日本と中国と「偽満州国」と日本統治下の台湾において、いったいどんな映画が、誰によって、どのような条件下で作られていたのかを知る機会がほとんどなかった私は、本書によってその渇を十分に癒すことができた。

当時、上海の租界には、抗日映画を製作する数多くの中国の映画会社があり、偽満州国には、大杉栄伊藤野枝を惨殺した甘粕正彦が2代目理事長を務め、本書のヒロイン李香蘭を擁する国策映画会社の「満映」があり、日本軍が包囲する上海には川喜多長政が日本側代表を務めた日華共同出資の映画会社「中華電影公司」があり、華北にも同様の国策会社の「華北電影公司」があり、本土には戦意高揚国策映画を大量生産し続けた「東宝」や「松竹」があって、彼らは、映画というメディアを駆使しつつそれぞれの顧客たちに対して思い思いのプロパガンダを発していたようだ。

日本と中国と偽満州国と台湾という4つの国家(地域群)を舞台に、アジア全体を巻き込んだ巨大な「戦争」と、それが「映画」界にもたらした暗く不吉な影に、著者は丁寧にスポットライトを当てていく。

厖大な資料を綿密に読み込みながら、長年にわたってじっくりと進められたに違いない著者の精密な解読作業によって、満州事変から敗戦にいたるまでの戦争と映画史の相関関係が、はじめて白日のもとに晒されたといえるのではないだろうか。

このようなアジアの戦争と映画史の骨太のドキュメンタリーを後景に据えた著者は、その気宇雄大な舞台の前景に、若き二人の主人公を登場させ、「偽の中国人俳優」を演じる日本人女性李香蘭と、皇民化政策によって強制的に「偽の日本人を演じさせられた台湾人映画監督劉吶鷗」との間に演じられたサスペンスドラマの世界を描き出し、その大小2つの世界を頻繁にカットバックする手法を採用することによって、全編にリアルな緊迫感を盛り上げている。

かつてわが国にニュージャーマンシネマ、さらには台湾映画ブームを招来させた著者らしい「映画的な構成」といえよう。

急速に広がっていく戦火と、その未曾有の混乱のなかで、ほんらい平和のうちに映画創造に献身できたはずの若者たちが次々にテロルに倒れ、ほのかな恋の炎さえもあえなく吹き消されていった。

本書によれば、劉吶鷗は前途有為な台湾生まれの映画監督&製作者であったが、1940年9月3日、上海の目抜き通り四馬路のレストラン京華酒家で何者かの手で暗殺されてしまう。

著者がいうように当時は
抗日戦争を巡る熾烈な戦いがあり、国民党の特務機関は対日協力者潰しに躍起になり、一方で日本側および汪精衛政権の特務機関は、抗日人士を標的にして逮捕・拷問・暗殺を繰り返し、また国民党残置機関の襲撃に暗躍していた」
が、にもかかわらず、戦乱の中国にはこういう能天気で純粋な青年はいっぱいいただろう。
いや一部の確信的行動主義者をのぞけば、民衆の大半が劉吶鷗のようなノンポリかオポチュニストだったのではないだろうか?

ところで劉吶鷗が暗殺されたちょうどそのとき、李香蘭は京華酒家から遠からぬパークホテル(国際飯店)で彼が来るのを待っていたのだという。

しかし著者の調査では、映画『熱砂の誓い』の北京ロケのために東京を発つ9月5日を目前に控えた暗殺当日の9月3日に、彼女がこの場所に居ることは不可能に近い。事の真相は、彼女が勘違いしているのか、嘘をついているのか、本当に待っていたのか、のいずれしかない。

「そしてもし本当に待っていたのだとすれば、劉吶鷗の知られざるもうひとつの仕事がそこから浮かび上がり、彼の暗殺の謎を解く重要な鍵のひとつが見つかるはずだ」

この謎のサスペンスドラマを解明しようと、著者は本書の最後で、李香蘭こと山口淑子に宛てた質問状を突きつけている。

この李香蘭こと山口淑子という女性について、私はこれまで何の興味を覚えたこともなかったが、本書を読んでどうも面妖かつ不可解な人物であるように感じた。

そもそも日本人なのに中国人に成りすまし、その二重国籍をケースバイケースで使い分けてアジア各国の舞台で媚を売るという了見がよく理解できない。暗殺された劉吶鷗との関係も曖昧だし、日本軍の満州&中国侵略のお先棒を担ぎ、時の政治権力に好きなように利用され、そのことにも無自覚に、ただ時流に流され続けた愚かな芸能人なのではないだろうか?

それに比べると、私は劉吶鷗のほうによほど親しみが持てる。台湾人でありながら日本国籍を強要され、民族の二重性に引き裂かれつつも、“イデオロギーとは無関係な自由な映画作り”にあこがれ、おのが才覚を存分に発揮しながら群雄割拠する中国各地を泳ぎ回っているうちに、結果的に日本軍の映画政策に取り込まれ、それが彼の若すぎた死を招いた。

当時同じ「漢奸」の汚名を着せられたヒーローとヒロインだったが、一方は無残に殺され、他方は故国に生還して“赤い絨毯”を踏んだりしている。もしも二人の間に燃えさかる恋があったと仮定すれば、山口淑子は著者の問いかけに無関心でいられるわけがない。 

しかし私はなぜかこの公開質問に対して永遠のヒロインは永遠に回答を留保するような気がしてならない。そしてそのことを著者はどうやら予期しているようでもある。

なぜならもしも本気で彼女の回答が欲しいのであれば、著者は万難を排して彼女に直撃インタビューを敢行しただろうし、それがドキュメンタリー作家の常道というものだ。
そしてインタビューが成就してもしなくとも、著者はその結果を読者に報告して本書の執筆を終えたはずである。

それをせずになんと本書の「あとがき」の文中において、彼女からの返答期し難い宙ぶらりんの質問状を挿入したところに、私は著者の微妙な心意を忖度したいのである。
同じ「あとがき」ではしなくも洩らしているように、著者は別に劉吶鷗と李香蘭の真実を究明するためにこの本を書いたのではない。

「私は台南で生まれた。歳を重ねるに従って故郷に強く惹かれる自分を意識する。できることなら台南で暮らしたい、と思う。劉吶鷗は上海で仕事に明け暮れながら、あの南島に帰りたいとの思いを心の底に抱いていた。亡くなったとき、彼はまだ三十五歳だ。生き延びたとしたら彼はどこで何をしたのかと、思わずにはいられない」

この短い文章を眼にしたとき、私はまだ見ぬ南の島を吹く一陣の爽風を心の中に感じた。著者の望郷の思いが、『李香蘭の恋人』という侯孝賢の『悲情城市』を思わせる透き通った叙事詩を書かせたのである。