蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

ある丹波の女性の物語第12回 幼児期と故郷


遥かな昔、遠い所で第34回

 「山家一万綾部が二万福知三万五千石」と福知山音頭にうたわれているように、綾部は九鬼二万石の城下町である。田町の坂を上がると大手門跡があり、それからは上は家中(かちゅう)といって士族の住居地であった。

私の幼い時は、家のある本町通りとカギの手になった西町通りが商店街であった。そのカギの手の角の家がこわされ、駅へ行く新開地が出来たのはいつだったろうか。立派な家がこわされたのは覚えているのだが、私の幼い記憶は新しい新開地の思い出に飛んでしまう。
 
 田圃の中に道路が出来、秋になると田の中に番傘を広げていなごを取った。一晩糞を吐かせて佃煮にしてもらったが、美味しいものではなかった。広場にはすすきや野菊がいっぱい咲いた。

 サーカスも来た。ジンタの天然のしらべの音楽がはじまると何となくウキウキして、テントの前につないである馬などを見に行った。時々表のカーテンがあいてサーカスのショーの一部をのぞかせてくれるが、すぐにカーテンはしまって見せ場はのぞかせてくれない。次の瞬間をみんなで待った。サーカスの子供は売られた子だとか、人さらいにあった子だとか、私達はヒソヒソ話をしたものだった。

 衛生博覧会や見せ物が、次々に原ッパで開かれたように思う。テントの杭打ちが始まるとこんどは何が来るかと楽しみだった。

 そのうち道の両側に次々家が建ちはじめ、みるみる綾部駅まで家がつまってしまった。長楽座という芝居小屋も建った。廻り舞台、両花道、早替わりのぬけ穴、舞台の両側には、はやし方がすだれの中に座っているのがのぞかれた。

 歌舞伎も、天勝も、石井漠のバレエも来た。そのたびに中の桟敷も二階席も満員になった。トイレの匂いが気になったが、花道横の一段高い所に、お茶子さんにざぶとんを敷いてもらっておいて、見に行くのは楽しみであった。有名な演し物は母がいつも連れて行ってくれた。

今ふり返ってみると大正文化の華やいだ頃というのであろうか。福知山には歩兵工兵隊、舞鶴には要港があったが、戦時色などというものはなかったように思う。

 そのうち芝居小屋はだんだん活動写真を上映する事が多くなった。舞台の下にはオーケストラボックスもあり、ピアノ、バイオリン等の楽師さんが沢山いた。今から思うとずいぶん贅沢な事だったと思う。

 綾部の町にはもう一つ帝国館という映画劇場もあった。映画はあまり見に行った覚えはないが、「二十六聖人」というキリスト教の映画、それに「何が彼女をそうさせたか」という映画の及川通子という女優さんを、とても知的で美しい人だと思った覚えがある。

綾部の町を有名にしたものには大本教もあるが、町の発展に力があったのは、やはり郡是製糸であろう。綾部には本社と本工場があり全国に沢山の分工場があった。蚕種研究所には大学出の研究者も数多くいた。社宅の子供達は皆賢かった。

 郡是製糸は基督教の精神を基として設立されたので、波多野社長の所属する丹陽教会は、その社員も多く、会社の発展によって出来た金融機関等の人や文化人も集まるようになった。矯風会支部も出来、教会婦人会などは、インテリ婦人の社交場のような雰囲気さえあった。

 又、月見町という芸妓置屋の集まる町も出来た。玉ツキ、射的場、カフェー等も出来て行った。

 大本教も盛んになっていった。開祖の、お直ばあさんを父はよく知っていた。近所に住む紙くず買いであったが、時々気が狂って大声を出してあばれるので、よく留置場に入れられたそうである。

「予言者は故郷ではいれられず」の言葉があるが、土地の信者は殆どない。養子の王仁三郎さんが生神様扱いされるようになっても、父は普通の人・王仁三郎さんとしてつきあっていた。私達もその子、孫さんと通常のつきあいである。

♪谷あひに ひそと咲きたる 桐の花
 そのうすむらさきを このましと見る 愛子