蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

ある丹波の女性の物語 第19回


遥かな昔、遠い所で第41回

 座敷が新築されてから、基督教の伝道に来る先生方の宿を進んでするようになり、賀川豊彦先生は5、6度も泊まられ、その他本間俊平先生など多数の先生方が宿泊された。
 今の世も何かを求める時代と言われるが、当時賀川先生の講演会等は、公会堂も超満員で、その場で受洗希望者が聴衆の中から沢山進み出た。

先生は燃えるような人であった。胸を病んでおられたから、いつも柱にもたれていられたが、睡眠時間は短く、祈りの人でもあった。父は冷静な学者タイプの先生より、行動派の先生に傾倒したようである。
今の生協の基となった「生活協同組合、共益社」を作り、父は組合長になり、日常生活品や賀川服等も一時売っていたように思う。

 私には幼児洗礼を受けさせ、物心つく頃から日曜学校に通わされたが、いつも何となく批判的で、父の祈りにこたえる事の出来ないような子であった。何か悪い事をすると親に詫びる前に、祈って神に許しをこわねばならぬのには閉口した。教育にも熱心で、玉川学園の小原国芳さんの教科書を取り寄せたり、小学生全集も揃えてくれたが、病後ハネ廻って遊ぶ事の出来なくなった私は、自然隣の本屋に入りびたり、本屋の小母さんに可愛がられることを良い事に、列んでいる雑誌を興味本位に読みまくった。

少女の友、主婦の友、婦人倶楽部、婦女会等の小説それに新青年、宝石等のミステリー物が大好きであった。牧逸馬などが当時の流行作家で色々のペンネームを持っていた。とにかく手当り次第で、何かで見た中勘助の「銀の匙」に感激したり、吉屋信子は美文調で甘すぎる等言って小母さんを苦笑させた。芥川竜之介も大好きで、自殺に憧れたりした。

 履物店は製造を止めて母の仕事となり、店員5、6人、お手伝いさんは行儀見習いのお姉さんが1人か2人いてくれた。けれど仕入れだけは父の仕事で大阪の問屋へよく連れて行ってくれた。

日曜日に行くと、午前中は大阪の教会で礼拝を守るのには不服であったが、昼食はレストランやホテルでフルコースの食べ方を教えられる事もあり、心斎橋の洋服店のウインドに出ている流行の服も買ってくれた。

 戦争前の履物問屋街は、実にひどい所が多かった。今はすっかり焼けてその面影もないが、種類によっては被差別部落の問屋のある裏通りへも行った。父はどんな店へ行っても態度を変えず、パリッとした背広で、きたない座ぶとんに腰かけ、差し出されるお茶もおいしそうに飲み、私にも飲ませた。

♪かづかづの 想い出ひめし 秋海棠
 蕾色づく 頃となりたり  愛子