蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

40年前の幻の「トリスタンとイゾルデ」

♪音楽千夜一夜第32回

冬来たりなば春遠からじ。私はその春の足音に耳を澄ましながら、もはや過去の遺物と化しつつあるヴィデオテープに収められたクラシック音楽の演奏を少しずつDVDに変換に変換している。

昨日は1967年に初来日したピエール・ブーレーズが大阪のフェスティバルホールワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を振った歴史的演奏を視聴した。イゾルデがビルギット・ニルソン、トリスタンがウオルフガング・ヴィントガッセン、マルケ王をハンス・ホッター、演出はヴィーラント・ワーグナーという、今では考えられない超弩級かつ垂涎の豪華絢爛たる組み合わせである。

オーケストラは大阪祝祭フェスティバル管弦楽団とあるが、おそらくはN響であろう。現在の腐敗堕落した同名のオケとは違ってなかなか見事な演奏を繰り広げ、当時弱冠40歳のブーレーズに巧みにドライブされてバイロイト風の味わいを醸し出している。さはさりながら、現在よりも40年前のほうが優れた演奏をしていた管弦楽団とはなんというおそまつさであろう!

しかしなんといっても素晴らしいのは表題役の2人の名唱、そしてハンス・ホッターの深沈たるマルケ王の絶唱である。ヴィーラントの演出といっても背後に「俊寛」を思わせる書割が出てくる程度でほとんど無作為であるが、その無作為が聴衆に音楽と歌唱への集中を促し、この空前絶後の絶対的な愛と死の物語への陶酔を生み出すのである。

それがすんでからNHKのFMをつけるとメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」の目も覚めるように鮮烈な、そしてほんとに私が吐き気を覚えたエッジーな演奏が聞こえてきた。「チョン・ミョンフンかな? いやもっともっと凄いぞ」と思いながら最後まで聞きとおすと、これがなんと若き日の小沢征爾がトロント響と入れた空前絶後の古い古い演奏だったので、私は大昔から今日までどんどん恐竜のように退化していったこの国民的アイドルの音楽的「反進化」の栄光と悲惨を思わないわけにはいかなかった。

小沢大先生の悪口をもうこれで最後にしようと思いつつまたしても書いてしまうのは、若き日の彼にはいま世界中の話題をさらっている81年ベネズエラ生まれの俊英指揮者ドゥダメルをはるかにしの超越的なアカルイミライがまぎれもなくあったにもかかわらず、その宝をうまく開花させることが出来なかったこの未完の天才に対して大いなる無念の想いがあるからで他意はない。

閑話休題。

その1週間くらい前には、教育テレビでコソットの演奏生活50周年記念のコンサートをやっていたがもう相当の年来なのにフィガロのケリビーノのアリアなどを歌い始めると肉弾相打つ風情の肥え太ったおばさんが突然妙齢の美少年に変身するのには驚いた。けだし年の功というやつだろう。
それに比べるとコソットより若いはずのバンブレーはもう往年の輝きは失せ、声も出ずまことに無残なものだった。

♪蝶々が舞うように歌いたりフィオレンツア・コソットの不可思議な「君が代
♪老残のグレース・バンブレー出ぬ声で懸命にシャウトせり黒人霊歌