蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

1945年8月の鎌倉文士

鎌倉ちょっと不思議な物語130回

先日、鎌倉文学館主催の極楽寺・稲村ガ崎周辺の文学散歩の驥尾に付して歩きました。

長く鎌倉に住んでいますが、極楽寺を訪問したことはあるものの、その近辺を歩いたことなぞ一度もないので道々もの珍しいことばかり。あちらこちらをぶらついてきました。

なんでもかつて極楽寺界隈には、文学者の中山義秀、評論家の中村光夫、詩人の三好達治田村隆一などが住んでいたそうです。針磨橋という橋を左に曲がってしばらく行くとあの「厚物咲」の作者中山義秀が、そして橋を過ぎてまっすぐ行くと三好達治中村光夫が道路の左側に住んでいて、大岡昇平を交えた4名の交流がしばらく続いたようです。

中山の家に大岡昇平が遊びに行くといつも中山は熊の皮を敷いた六畳間で昼寝したいたそうです。朝寝して宵寝するまで昼寝して時々起きて居眠りをしていたんでしょうな。

1945年の8月、6日の広島に続いて9日に長崎に新型爆弾が落とされた日の翌日、中村光夫田山花袋論を書いていると、昼寝から目覚めた中山義秀が白米2升を抱えてやってきました。

中村が感謝して受け取り「死ぬときは白米くらい食って死にたいからな」というと、中山は「まったく(日本は)ひどいことになったね。ソ連なんてなんだい。まるで火事場泥棒じゃないか」と非難しています。その前日の8月8日にソ連が満州に侵攻していたのでした。

♪ふとしたはずみで喧嘩して、ふとしたはずみで人殺す それが世の常人の常 茫洋