蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

息子の言葉『父の遺したもの』第2回


ある丹波の家族の物語 その10&♪遥かな昔、遠い所で第83回

オルコット作「若草物語」を読んでの父の感想は、次のようなものでした。
「何でも買うことのできる金持ちは不幸です。」

また父は、特殊学級の先達者、杉野春男氏(小倉市、四七年モスクワ空港で没)の「花に水やりを教えられた精薄児が、雨の中、傘をさして水をやる姿に感動す。」という言葉をメモしていますが、私は、障碍児を孫に持った父なりの関心と苦悩がこれを書かせたのだろうと想像しています。

キリスト者としての父については、実は私はよく知らないのです。けれども信仰が父の生きる糧であり、絶えず聖書の言葉を胸に刻みつつ生活していたのは、熱意と集中力をもって書き遺された聖句のメモがおのずとそれを物語っています。とりわけ私が驚かされたのは「ヘブル書一一章」と「使徒行伝七章」。この二つの章は旧約聖書を凝結したものである」との断定でした。

さらにまた五九年四月二二日、イースター昇天祈祷会における中島牧師の言葉、「イエスの復活は信仰の出発点である。」も、父の心にしっかりと触れたのでしょう。

父はおそらくこうしたメモを下駄の商いを営んだと同じ、暗くて狭い仕事場で書きつけ、折にふれて思考を反芻し、一人の信仰者として、一人の市民として、一介の商人としての在るべき道を必死で摸索し続けたのでしょう。

私は息子として、そのことにいささかの感銘を覚えたものですから、父の許しも得ずに、つい長々と駄文を連ねてしまいました。
私はクリスチャンではありませんが、いま何者かに一生懸命に次のように祈りたいと思います。「死せる父よ、死んでも私たちと共に在って、私たちを見守ってください」と。

一九八五年九月一三日


♪丹波竜わたしの実家を闊歩して 茫洋