蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

満福寺徘徊



鎌倉ちょっと不思議な物語第150回

江ノ電の線路をまたいで松の茂った急な階段を見上げると、そこは義経の腰越状で名高い満福寺であった

元暦2年1185年、平家を壇ノ浦に滅ぼし鎌倉へ凱旋してきた義経は、この寺に滞在して兄の怒りを解くべく一通の書状をしたため、これを大江広元に託した。しかし梶原景時の讒言によってついに兄頼朝との再会がかなわず、ここ腰越から泣く泣く京へ引き返したのである。

義経はそれからご存じのように奥州藤原氏に匿われたが、文治5年1189年6月の中旬、藤原泰衡によって衣川で討たれ、その首は百三十里をゆるゆると四十三日かけて鎌倉に送り届けられ、その首実験はところも同じここ満福寺において梶原景時と和田義盛によって行われた。

この両名はいずれも数年後には北条氏の陰謀によって撃滅窮死せられる御家人であったが、おりしも八月初旬の暑い盛りの節だったから、いくら義経の首が酒にとっぷり浸されていたとはいえ、その形状は原形をとどめず、その発する腐臭は耐え難いものだったろう。

ゆえに後世ここから偽首ではないかという嫌疑が生じ、さらに大きく逸脱して義経ジンギスカン説などの浪漫伝説を生むことにもなったいわくつきの寺であるが、いまなお境内も本堂もどことなく怪しくいかがわしい空気がみなぎっている。

本堂の甍にはなんと源家の文様の瓦が載せてあるし、弁慶が書いたと伝えられる腰越状の下書きにしても醜い褐色にたらしこまれ、真贋いずれとも判別できない。しかし念の入ったことには弁慶の筆をうるおした硯の水を汲んだ池まで現存しており、数匹の緋鯉まで泳いでいるとあっては、もはや何をかいわんや、であった。

池の突き当りは広大な墓地になっており、墓地の上の小高いところには義経旅館と料亭まで兼備されているのでお暇の方はぜひ訪れられよ。


♪世を呪い人を恨みて満福寺 茫洋