蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

希望と絶望


バガテルop86

オバマさんが米国の第44代大統領に就任しました。なかなか立派な演説で、とりわけ最後の段落の美辞麗句を駆使した呼びかけなどは感動的ですらありましたが、ああいう原稿は彼自身が書いたのでしょうか、それともゴーストライターが書き下ろしたのでしょうか。リーマン時代からそういう仕事をやらされてきた私の勘ではたぶん後者だと思うのですが、はたして真相はいかに。英国ならともかくそうとう時代がかった大レトリックで、ああいう長大な係り結びの関係を持つプルースト的な文脈に久しぶりにおめにかかりました。さすがオバマさんですね。

閑話休題。さて厳寒の首都で、早朝から200万人を超す市民たちの熱い歓呼の声を浴びた新大統領ですが、前任者のならずものがあれだけ夜郎自大、野放図にやりたい放題をやってのけた後始末はなかなかの難題でしょう。

「世界の保安官」であることを自負してあえて大義なき戦争の泥沼に飛び込んだブッシュさんでしたが、それはベトナム戦争のときと同様に大統領自身と米国民の首を絞める結果に終わりました。いわば自業自得ですね。

オバマさんがイラクからの撤退とイスラム社会との新たな和解を宣言したことは世界の平和にとって歓迎すべきことです。しかしその実情は、アルカイダのテロ撲滅という大義名分をなおも振りかざし中東への武力介入とイスラム原理主義者との対決をこれ以上続けたらこの国は満州事変以降の日本帝国のように経済的にも思想的にも立ちいかなくなるということではないでしょうか。じっさいに中国やロシアや一部の反米主義諸国はその日がやってくるのを心から待ち望んでいるのでしょう。

サブプライムローン問題で世界金融崩壊の口火を切って、革命ならぬ亜世界恐慌を全世界に輸出した米国ですが、じつはブッシュ政権の2期目の頃からこの国の土台は腐り始めていたのではないでしょうか。いや国際金融資本主義の土台そのものが、です。サブプライムローン問題はそのささやかなきっかけに過ぎないのではないでしょうか。

オバマさんは「市場は注意深く見ていないと制御不能になる恐れがある。富者を引き立てるだけでは、国は長く繁栄できない」と演説しましたが、市場の自由と開放がもたらした投資ファンドの国際的な暗躍と富の独占の制限は、それ自身が立国の理念への挑戦であり、まさしく盾と矛の関係なので、統御の理屈作りと実際の運用方法がむずかしそうです。まずはビッグ3への公的資金投入問題でそれが問われることになるのではないでしょうか。

要するにここで求められているのは、資本主義の社会主義化であり、私益に対する公益、国益(この2つは内容が違いますが)の優先です。だからこそオバマさんは「チエンジ」の大安売りをやめて「責任」の大号令を発したのでしょう。新ケインズ主義者と新社会民主主義者による金融資本主義と新自由主義の修正がはたして可能であるのかは、それこそ神のみぞ知るところでしょうが、ここで米国民にプロテスタントの「神がある」ということは非常に大きな意味を持つのではないでしょうか。

新大統領の指導力に期待して極寒の首都を埋めた各人種各階層の老若男女200万人は大いなる夢と希望に胸を焦がしています。それは仕事と平和と家を取り返す夢と希望です。けれどももしも2年以内にそれが実現されなかった場合、新大統領に寄せられた巨大な希望のエネルギーは絶望にとって代わり、その社会的反作用は恐るべきものとなるでしょう。

しかしいずれにせよ米国にはオバマ大統領という名の「希望」があります。これに対してわが国にあるのは麻生太郎という名の「絶望」でしょうか。ここで私は、「絶望の虚妄なる、希望と相似たり」という魯迅の言葉をはしなくも思い出したのですが、絶望も希望もしょせん似たようなものだとすればなおさらのこと、世界の最先端を行く米国の蹉跌をただし、ありうべきもう一つの進路を指し示すべき国民はほかならぬ日本ではないのだろうかという思いにとらわれるのですが。

 ここまで書いてきて朝刊を見たらやはり27歳!の首席スピーチライターというのがいて、共同で書き下ろしたそうです。終盤の引用はトマス・ペインだというのですが、それにしてもかなり教養のあるゴーストライターですね。


♪望みなきにしもあらずなおも一縷の希望を胸に進みたし絶望も希望も虚妄ならば 茫洋