蝶人戯画録

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メンズ漫録その8 明治皇后の衣服改革


ふあっちょん幻論第31回

 明治19年、天皇は病気がちで執務と行幸を怠ったが、その代理を洋装で務めたのが皇后だった。

宮廷の旧来の類型を打破して、皇后が初めて洋装で公衆の面前に登場したのは同年7月30日に華族女学校に行啓し、卒業証書授与式に出席した時だった。

翌月の8月10日には、皇后は天皇とともに西洋音楽会に出席し、洋服姿で初めて外人客に接見した。それは鹿鳴館の物真似ではなく、聡明な彼女の内部で芽生えた自立的な自己意識の産物だった。

さらに皇后は、天皇の代理で横須賀造船所で行われた軍艦武蔵の進水式に出席したり、赤羽で行われた近衛兵の戦闘訓練を観戦し、11月26日には巡洋艦浪速、高千穂に試乗して水雷発射作業を観覧し、「事しあらばみくにのために仇波のよせくる船もかくやくだかむ」と詠んだ。

翌20年の元旦、皇后はこれも開闢以来初めて洋装大礼服を着け、宮中の祝賀を受けたが、以後このコスチュームがこの種の儀式での慣例となった。1月17日に彼女は女子服制に関する「思召書」を発布したが、ここで彼女は「着物は14世紀南北朝以来の戦乱期が残した悪しき名残であり、今日の文明に適しないばかりか、古代の日本女子の服装とも異なる。着物よりもむしろ西洋女性の服装が古代につながる。『宜しくならいて以って我が制と為すべし』と述べ、これが国産服地の改良、販促につながることを期待したのであった。

以上はD・キーン著「明治天皇」からの抜粋でしたが、私はこのような男勝りのスーパー国粋派女帝や三韓征伐に挑んだ神功皇后よりも皇室の非人間性に窮して病気がちの雅子妃の自虐的に抵抗しつつ苦悶する態度の方がよっぽど普通ぽくて好ましく感じられます。


つとめてあかるくいきようでもどれくらいできるかしら 茫洋