蝶人戯画録

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ムーティ指揮スカラ座でヴェルディの「ファルスタッフ」を視聴する


♪音楽千夜一夜第63回

ジュゼッペ・ヴェルディの歌劇「ファルスタッフ」はシェークスピアの「ウゥンザーの陽気な女房たち」を原作にしたオペラです。

シェークスピア原作による彼のオペラはほかに「マクベス」と「オテロ」があってどれも傑作ですが、ヴェルディ最後の作品となったこの「ファルスタッフ」はそれらを凌駕するのみならず、私見では彼の最大の傑作だと思います。

そのことは処女作の1839年の「オベルト」から42年ノ「ナブッコ」、47年の「マクベス」、53年の「椿姫」、57年の「シモンボッカネグラ」、59年の「仮面舞踏会」、67年の「ドンカルロ」、71年の「アイーダ」、87年の「オテロ」、そして93年遺作となったこの「ファルスタッフ」と順番に聴き進めていくと誰の耳にも明らかになるのではないでしょうか。ヴェルディは88歳の生涯の80歳の年の最後の作品で彼の最高の作品を書いたのです。

ファルスタッフ」は陽気で悪知恵が働き好色で酒と料理と金儲けには目がない太鼓腹のおいぼれ騎士です。なんでもこの騎士サー・ジョン・フォルスタッフの恋物語をシェークスピアはエリザベス1世のリクエストによって創作したともいわれているようですが、まことに愛すべきキャラクターではあります。

私が今回鑑賞したのは2001年4月にヴェルディの生誕地であるイタリア・ブセートのジュゼッペ・ヴェルディ劇場で行われたリッカルド・ムーティ指揮、スカラ座の公演のライヴビデオでしたが、題名役を演じるアンブロージョ・マエストリとマドンナ役であるフォード夫人アリーチェを歌うバルバラ・フリットリが好演。ムーティとスカラ座のオーケストラなら第三幕の大詰めなどもっと盛り上がるはずですが、まずまずのバックアップといえるでしょう。

かねてから世間の鼻つまみ者であるファルスタッフは、地元ウィンザーの奥方に勝手に横恋慕したところを、住民たちやかつての従者たちの陰謀にたわいなくひっかかって、よってたかって川に投げ込まれたり、真夜中の森で袋叩きにされるなど、じつに気の毒な目に遭ってしまうのですが、その途中の展開部ではシェークスピアの「真夏の夜の夢」やモーツアルトの「フィガロの結婚」を思わせる情景が繰り広げられ、喜劇的なセリフの周囲を草の蔓のようにぐるぐる巻きにすると音楽が完全に一体化して時折は無調に突入する瞬間すらあるのです。あくまでも真実を求める言葉と音楽が、そのもっともふさわしい関係に立とうとすれば、古典的な調性は破綻せざるをえない好個の例かと思われます。

オペラでは最後に「人間はみな愚か者」という陳腐なアリアを大合唱して幕が下りるのですが、シェークスピアの原作にはそんな道徳訓はこれっぽっちもありません。私が偏愛する坪内逍遙の訳では、フォード氏の次のようなセリフで非劇的な結末を迎えるのですが、これこそが本来の終わり方であったと思うのは私だけでしょうか。
「さうしませう。ジョンさん、でも、あなたは、ブルックへの約束だけはやッぱりお守りなすたんですよ。なぜなら、あの男は今夜フォードのおかみさんと寝ますよ」


自閉症のわが子に優しき二人の女性いずれも拒食症を病みてけるかな 茫洋