蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

東勝寺橋を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第180回

東勝寺は太平記にも記されているように北条政権が最後の日を迎えたところです。

稲村ケ崎、稲瀬川方面からアサリを押しつぶして突入した新田義貞の軍勢が、最後の執権北条高時の軍勢千余騎をここ葛西が谷に追い詰め、暗い谷戸の奥の奥にある「腹切りやぐら」で武者全員が自害したことで知られていますが、東勝寺橋はその谷戸の麓を流れる滑川にかかっている瀟洒な石橋です。

ちょうどこの近くに亡くなった澁澤龍彦が住んでいて、滑川でウナギを獲っているのを見物していると、この奥に住んでいた立原正秋がベレー帽をかぶり自転車に乗ってこの橋の上を通り過ぎたというエッセイを書いており、神西清にも「腹切りやぐら」を訪ねるエッセイがあるそうです。(鎌倉文学館資料より)

また太平記によれば鎌倉時代に青砥左衛門賢政(藤綱)という武士がおり、夜この東勝寺橋を渡ろうとして銭十文を滑川に落としてしまった。そこで近くの町屋に従僕を走らせて銭五十文で松明を十把買わせて川底を捜索し、とうとうその一〇銭を見つけ出したところ、この話を聞いた人々が「一〇銭を捜そうと五〇文で松明を買うとは大損ではないか」と嘲った。すると青砥左衛門少しも騒がず、「もし私が一〇銭をそのままにすれば永久に役に立たない死銭になるだろう。しかし松明を買った五〇銭は商人のものになってずっと流通する。一〇銭と五〇銭合わせて六0銭がなくならずにずっと流通することは大きな利益ではないか」と反論したので、悪口を言った人々も深く感じ入ったといいます。個人的小利ではなく社会的大利を重んじるというこの時代には珍しい重商主義的な視点を持っていた武士だったわけですね。

青砥左衛門は歌舞伎十八番の「白波五人男」にも登場して彼らを滑川にかかった土橋の上で捕まえるのですが、青砥左衛門邸はこの東勝寺橋を流れる滑川のかなり上流にあたる浄明寺の青砥橋付近にあったと伝えられています。ちなみに私の住まいの近所です。

ちなみついでに、この近くで主婦が運営している「青砥」は、まずい高いで全国的に有名な鎌倉の和洋飲食店の中では珍しく、おいしくて値段も手頃な和食の家庭料理屋さんなので、誰にも知らせず内緒にしておきたいと思います。

ビーケーワン書店より鉄人28号に選ばれし恍惚と不安われにあり 茫洋