蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

神奈川県立近代美術館の「建築家坂倉準三展」を見ながら


勝手に建築観光36回&鎌倉ちょっと不思議な物語第198回

坂倉準三は大学卒業後、1929年に渡仏し、ル・コルビジュのアトリエで働き、彼の仕事をつぶさに見聞きしてそのノウハウを身につけた建築家です。

1937年にはパリの万博日本館の設計でグランプリを獲得、1939年に帰国してからはここ鎌倉に1951年に神奈川県立近代美術館を建てたり、1966年には新宿西口広場や地下駐車場のデザインを担当してフォーク集会に格好の場を提供するなど、わが国の建築史上に多大の功績を残し、全共闘運動の波動も禍々しい1969年に68歳で亡くなりました。

この人の特徴はやはり師匠ル・コルビジュ直伝のモダニズムと、そこに薄味の醤油のように加味された和風趣味のハイブリッドということではないでしょうか。それは東京市ヶ谷の日仏会館や本展が開催されている鎌倉の県立近代美術館を見ればよくわかるようなきがいたします。

市ヶ谷の高台に聳えるおふらんす文化の白亜の殿堂、東京日仏学院はそのモダンな内外装も見事ですが、その昔は語学を教える超絶的美人が何人もおりまして、当時田舎から上京したばかりの私は、最初の授業でうっかり最前列に座ったばかりに œuの発音を何度も何度もやらされました。

その金髪のミレーヌ・ドモンジョそっくりのパリジェンヌは、微笑みながら私の唇すれすれにその美しい唇を突き出して œu、 œuと繰り返しますと、シャネルの5番の香水がほのかに混じった生あたたかい息が、まともに私の顔に当たるので、私は生まれて初めて卒倒しそうになりました。

恥ずかしさに真っ赤になった私が、彼女の「口移し」でœu、 œuとうなりますと、その度に「ノン、ノン」なぞとたしなめられ、何度も何度もやり直しを命じられる。
このようにして美しき女教師ドモンジョ嬢の血祭りに上げられた三四郎は、もうこりごりと次回からの夏期講座を放棄してしまったのですが、そのおかげで女性とフランス語に対する致命的なトラウマを刻印されることになってしまったのです。

しかし、もしもあのシャネル鼻息攻勢に懸命に耐えて通っておれば、おのずとまた違った展開があったかもしれない、などと思いかえせば、いまなお恨めしき坂倉準三設計のお化け屋敷であります。

思いっ切り横道にそれてしまいましたが、八幡宮の入口右にひっそりたたずむ県立近代美術館は私のお気に入りの場所で、2階のカフェから見下ろす平家池の蓮は絶品です。なによりも土と水と緑に完全に溶け込んだ建物の、目立たなくて、上品で、温和な風情が私たちの心にしとりとなじむのでしょう。

それにしても、ル・コルビジュは、いったいどこから彼一流の高床式建築術を編み出したのでしょう。もしかするとアジアやインドシナ、南洋諸島の古い土俗的な様式から学んで、近代建築に生かそうとしたのかもしれませんね。

http://www.moma.pref.kanagawa.jp/public/HallTop.do?hl=k

♪ああわが青春の麗しのドモンジョいまごろどこでどうしておるか 茫洋