蝶人戯画録

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マーク・フォスター監督の「ネバーランド」を見る


闇にまぎれて bowyow cine-archives vol.7

衛星放送で「ネバーランド」という映画をぼんやり眺めました。これはピーターパンという有名なキャラクターと彼の仲間たちが住む「ネバーランド」という空想世界を創案したスコットランドの劇作家ジェームス・マシュー・バリーの生涯を脚色した物語で、ピーターパンのモデルとなった寡婦と4人の少年たちが登場します。

すべての少年少女が夢見る存在であり、気まぐれな空想や海洋冒険譚に夢中になったり、動物や自然と自分を簡単に一体化してしまう連中である、という通念は、いわば世界共通の幻想ですが、実際にはそのステレオタイプに乗っかったドラマが続々生産されてきました。

こうしたドラマの本質は、無邪気な少年少女自身の空想の産物というよりは精神に傷を負った大人の奇怪な妄想であることは、ルイス・キャロルのアリスと同じように、このバリー原作のピーターパンでも歴然としています。もしかするとピーターパンは、子供の振りをした大人による子供像の典型なのではないでしょうか。

もちろんピーターパンたちが空を飛んだりするところは見る者をワクワクさせてくれますが、その半面彼らが住んでいるネバーランドというのはそうとう不気味な世界ではないか、ということは、この映画のラストで死に瀕した寡婦がよろよろと辿る冥途の旅路の不吉なビジュアルが示しているような気がします。

監督は凡庸なマーク・フォスター、主演はジョニー・デップとケイト・ウインスレットという人気者ですが、いずれも「種なし葡萄」のように演技も存在感も不確かな役者です。
けれど、もしかするとそのクローズアップに堪えない不透明で実体のないあやふやな顔かたちと怪人20面相的なキャラクターこそが、今日の世界とハリウッドの現在を象徴しているのかもしれません。


鳥海山より岩木山を直視したるわが眼を鏡で見ている 茫洋