蝶人戯画録

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コーリン・デービス指揮コベントガーデン王立歌劇場管で「魔笛」を視


♪音楽千夜一夜第91回

03年2月1日のライブですが、モーツアルトに定評のある指揮者なので安心して聞いていられます。演出はオオソドクスな手法が好ましいラビット・マクヴィカー。パミーナのドロテア・ルシュマン、タミーノのウイル・ハルトマン、パパゲーノのサイモン・キーンリーサイドも好演していますが、夜の女王ティアナ・タムラウの絶唱が脳天に響き渡る。モーツアルトはなんて素敵なアリアを書いたんだとつくづく思わされる演奏です。

魔笛は秘教オペラなぞと称されるだけあって、何回見てもよくわからないところがあります。たとえば夜の女王とザラストロのどちらが悪者なのか。パミーナはザラストロの実の娘ではないので妙齢の娘に対する義父の視線はどこか怪しい。冒頭いきなり大蛇に襲われて気絶して3人の侍女に助けられるタミーノなんて、とても勇者とは思えないのですが。

それからタイトルの魔笛にしても、パミーナの父で夜の女王の夫がトネリコならぬ柏の木から嵐と稲妻の夜に刻んだ代物であるらしい。ということは、その神話的来歴がワーグナーのリングのリブレットに影響を与えた可能性もあるのでしょうか。

ところでモーツアルトに限らず、作曲家の音楽の本質は、かれらが書いた楽譜の中、というよりは彼らが楽譜に封印した音塊そのもののなかに潜んでいるには違いありませんが、いくら演奏家がスコアを忠実に再現しても、その演奏が作曲家が脳内に築き上げた音響建造物の原想と合致しているかどうかを、当の作曲家自身だって確言することはできないでしょう。

なぜなら作曲家の原想は必ずしも彼が書き下ろした楽譜とは同致せず、楽想のすべてがスコアに書き込まれているとは限りません。楽想はつねに揺れ動いて変化し続けていますが、いったん作曲家の手を離れたスコアは、その瞬間に過去の産物となり、原想からおいてけぼりをくらいます。だから作曲家にとってどのスコアもすでにおのれの手を離れた異物であり、いわば永遠に宇宙に放置されたさすらいの未定稿なのです。

またそんな事情を無視して「スコア=原想そのもの」だとしても、実際にはそれは演奏家の個々の解釈や古楽器や現代楽器など多種多様な楽器による演奏を通じてしか現実の音とならないので、それら無数の再現のいずれが作曲家の真意にもっとも近いのであるかを断定するのは、たとえ作曲家自身のお墨付きを得たにせよ至難の業といえましょう。

もとより作曲家の真意を正しく反映した演奏が優れた演奏とは限らないのですが、(たとえばストラビンスキーやシュトラウスの自作の演奏)あれやこれやのコンサートやCDの聞きまくりを全廃して、楽譜だけを読み込み、頭の中で空想の音楽会を開いて自在に音楽を鳴らしてみることこそ、作曲家の楽想の原像に肉薄する最短距離なのかもしれません。楽譜の読めない私が今頃そう思い当たっても詮無いことなのですが。

♪満月の星空に響くあのアリア夜の女王はそも何者 茫洋