蝶人戯画録

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アレクサンダー・ヴェルナー著「カルロス・クライバーある天才指揮者

kawaiimuku2009-12-02



照る日曇る日第312回&♪音楽千夜一夜第97回

昨日の渋谷で思い出しましたが、カルロス・クライバーはよくお忍びで日本に来ていました。東京では渋谷のタワーレコードがお気に入りで、店員さんの話では、アメリカのBEL CANTO SOCIETYから発売されていた、彼がスカラ座のオケを振ってドミンゴ、フレーニが歌った「オテロ」の海賊盤のライブビデオを、なんと3本も買っていったそうです。

この公演は、私などはじつに素晴らしい演奏だと思うのですが、1976年12月7日の夜のミラノの聴衆は、そうは思わなかったとみえて猛烈な「ブー!」を浴びせかけ、2幕の冒頭では、さすがのクライバーも指揮棒を振りおろすのをためらうシーンもあります。

しかし4幕が終わってオテロが死ぬと、スカラ座の屋台骨を揺るがすような大歓声が沸き起こり、全盛時代のクライバーは、悪意ある3階立ち見席の敵対者を完膚無きまでにねじり伏せるのです。

その天才指揮者の微に入り細にわたる伝記が、半分だけですが、ついに公刊されました。
著者のヴェルナーさんがどういう方かは存じませんが、ともかく資料と取材源の豊富さには圧倒されます。

そして、いつもは誰にも優しく、しかしいったん指揮台に上るや別人に変身し、ある時は神のごとく地上を支配し、またある時は悪魔のように怒り狂い、再現芸術の演奏に求められる最高の知性と教養と技術と霊感をそなえながら、音楽に対する理想が誰よりも高すぎたために、どんな拍手と喝采にも満足することができなかった、この不幸で、孤独な男の実像と虚像が赤裸々に描かれています。

本書が扱うのは彼の無名時代から、1976年ついにスターダムの頂上に達しながらバイロイト音楽祭の「トリスタンとイゾルデ」から突然降りところまで。偉大なる指揮者であった父エーリヒや母ルースとの葛藤はじつに興味深いものがあります。

聞けば彼は、その長い下積み時代に、オペレッタ「ジプシー男爵」や「美しいエレーヌ」「メリーウイドー」、「ダフネ」「売られた花嫁」「ラ・ボエーム」「蝶々夫人」「リゴレット」「ドンジョバンニ」などの膨大なオペラ、「ウンディーネ」「コッペリア」「三角帽子」「くるみ割り人形」などのバレエ音楽を、すでに自家薬籠中のものとしていたそうです。

これらのレパートリーと合わせて、アルベン・バルクの「ヴォツエック」、ミケランジェリと共演したベートーヴェンの「皇帝」などの録音も、とうとうゆめ幻と消え去り、ついに音源化されることのなかったことを思うと、私たちが失ったものの大きさに今更ながら深いため息が出るのです。


♪よみがえれクライバー、霊界の騎士像に立ちて「ドンジョバンニ」を振れ! 茫洋