蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

梟が鳴く森で 第15回


bowyow megalomania theater vol.1


「僕はこのパルシファルが好きでねえ。なぜかというとパルシファルという主人公が自閉症児者にとっても良く似ているからなんですよ。アダムとイヴがエデンの園で蛇にそそのかされて食べてしまった禁断の樹の実。彼らはそれを食べることによって目が開け、神のように善悪を知る者となりました。それ以来、知は人類の最大の武器となり、文明と社会をつくり変え、人々の生活を進歩させてきたと言われていますね。

しかし他ならぬその人類のエッセンスとしての知性が僕たちの文明を破滅に追いやり、地上に残された最後の楽園をすら地獄に変えようとしている。ワーグナーの「パルシファル」のテーマも、そこにある。悪魔クリングゾールの毒牙にかかった薄幸の美女クンドリーと現世を統べる王アンフォルタスの悲劇を救うのは無知で無欲で無垢の魂を持った愚か者、すなわち自閉症のパルシファルな人なんですからね。

自閉症に限らず精神や身体に障碍のある人の多くが、どうしてあのように純粋で汚れのない清らかな心を持っているのか僕は不思議で仕方ありません。
もしかすると知恵を持つということ、神経細胞ニューロンが触手を伸ばして脳内ネットワークを持つということ、そのこと自体に悪と毒が含まれているのかも知れません。つまり、人間が人間になる過程自体に、神様の目からご覧になって悪魔的な要素が激烈に増殖しているのかも知れませんね。

知恵遅れとかダウン症とか自閉症児などを長く見続けていると、これらの障碍のある人は、生まれながらに絶海の孤島の住人であるような錯覚にとらわれることがあります。傷つき汚れた文化や文明から遠くへだたった、きれいな自然と大気の中で、もっとも天国に近い環境で、もっとも純粋に近い姿で生きている現代の聖者、現代のパルシファル、そういうイメージです。

時々眠れない夜、絶望にかられてこの世のあれやこれやの悲惨な状況について考えているとき、ふと彼ら障碍者のことを思うと、なぜか突然力を与えられ、未来がひらけてくるような気持ちになることがあります。金と力に目がくらんだこの世紀末に、まったく権力も欲望も知恵もない聖なる愚者である彼らがどこかから静かに姿を現し、僕たちの陥った蟻地獄のような災厄に優しく清らかな手を差し伸べてくれるという美しい幻想、いや幻覚でしょうな。その幻覚だけが僕の日常を支えてくれるのです……」


聖なる日聖なる人はよみがえりの聖なる歌は世界に響く 茫洋